こんにちは。
最近はキチガイが可視化し、不可視化し、今までと違ってキチガイである人間が大勢いることは見えているのに、そいつが誰かわからない何ていうミステリーじみたような社会になっていますね。
今回のタイトルは奇書“ドグラ・マグラ”から抜粋させてもらいました。
読んだことがあれば、たぶんピンと来るかと。
チャカポコチャカポコ言ってる、眠気との戦闘が始まるあの地獄のシーンです。
さて、人間の話ですが、正しさより楽しさを優先してしまうのは人間の摂理らしいです。
そして、正しさというのは信仰によって異なっていて、絶対的な善こそ絶対的な悪であると。
他人への干渉はある場面ではアートで、ある場面では暴力であります。
アートには人間の持つ感性の引き出しやコンテクストを結びつける役割があり、暴力には強力な束縛によりあらゆる選択を奪います。
結構、暴力的な人って多くて、最近よく見る大抵の暴力は社会、道徳、倫理、大人を盾に無双乱舞を発動してきますよね。
そんなキチガイ地獄外道たちが足りていない認知の話を今日はしようかと思います。
以前も出させていただいたハンナ・アレントは、実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という“アリストテレス的”見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定しています。すなわち、未来は過去の帰結以外のなにものでもないと言っています。
このような前提のもとだと、記憶が過去のための器官であるような具合で、意志を未来のための器官とする考えは全く不必要なものでした。
アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかったのです。
つまり、ギリシャ人は、我々が“行動の原動力”だと考えている“意志”についての“言葉さえも持っていない”ということです。
SNS上の攻撃は大抵、“意志”の所在をベースに罪を組み立てます。
意志とは、責任を問うために最初の選択の開始地点を確定するために呼び出されるもの。
例えば、ある日私が遅刻するとしましょう。
私は家族を養うために、仕事とは別に深夜までアルバイトをしていたとします。
すると、同情を誘って許されることもあるかもしれません。
それは、私に能動的選択の余地がないからです。アルバイトをせざるを得ない。
一方で、遅刻の前日に夜遅くまで酒を飲みまくって二日酔いで出勤するとします。
そこには飲まないという選択肢と飲むという選択しの中から飲むを選んだからそこに責任が生じます。
めちゃくちゃ怒られますね(笑)
しかし、その選択というのは“意志”という未来態が独立してあるわけではなく、あらゆる過去との結び付きで起こるものです。
たとえば、飲みに行かないと最近付き合い悪い等という悪い先輩たちがいたからかもしれません。断れば断るほど独立して仕事がしにくくなることを恐れて“飲む”選択を強いられた可能性もあるわけです。
要するに、意志とは他人がある人に責任を負わせたいとき、初めて生じる現象だということです。
上記の例のように、能動受動の奥行きでは行為の説明しきれないのです。
そこで必要な概念として中導態が登場します。
昔は能動態と中導態の遠近法で考えられていました。
中動態について、アトガー・アランは抽象的な定義として、主語の被作用性をあげていました。
この被作用性には度合いがあり、左端に低度の被作用性、右端に高度の被作用性を位置付けた物差し状の線分を掲げています。
被作用性が低い場合に能動態、被作用性が高い場合に中動態と位置付けていました。
つまり、行為の持つ質や度合いで判断していたということです。
このような尺度では、自由意志のような、純粋な始まりを持つ未来態は存在し得ない。
自由意志とはその信仰のために、ありもしない純粋な始まりを信ずることを強い、我々が物事をありのままに認識することを妨げる。
我々が、中導態のもとに動いている事実を認識することこそ、我々が自由になるための道なのです。
最近はキチガイが可視化し、不可視化し、今までと違ってキチガイである人間が大勢いることは見えているのに、そいつが誰かわからない何ていうミステリーじみたような社会になっていますね。
今回のタイトルは奇書“ドグラ・マグラ”から抜粋させてもらいました。
読んだことがあれば、たぶんピンと来るかと。
チャカポコチャカポコ言ってる、眠気との戦闘が始まるあの地獄のシーンです。
さて、人間の話ですが、正しさより楽しさを優先してしまうのは人間の摂理らしいです。
そして、正しさというのは信仰によって異なっていて、絶対的な善こそ絶対的な悪であると。
他人への干渉はある場面ではアートで、ある場面では暴力であります。
アートには人間の持つ感性の引き出しやコンテクストを結びつける役割があり、暴力には強力な束縛によりあらゆる選択を奪います。
結構、暴力的な人って多くて、最近よく見る大抵の暴力は社会、道徳、倫理、大人を盾に無双乱舞を発動してきますよね。
そんなキチガイ地獄外道たちが足りていない認知の話を今日はしようかと思います。
以前も出させていただいたハンナ・アレントは、実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という“アリストテレス的”見解は、暗々裏に未来を、真正な時制とすることを否定しています。すなわち、未来は過去の帰結以外のなにものでもないと言っています。
このような前提のもとだと、記憶が過去のための器官であるような具合で、意志を未来のための器官とする考えは全く不必要なものでした。
アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかったのです。
つまり、ギリシャ人は、我々が“行動の原動力”だと考えている“意志”についての“言葉さえも持っていない”ということです。
SNS上の攻撃は大抵、“意志”の所在をベースに罪を組み立てます。
意志とは、責任を問うために最初の選択の開始地点を確定するために呼び出されるもの。
例えば、ある日私が遅刻するとしましょう。
私は家族を養うために、仕事とは別に深夜までアルバイトをしていたとします。
すると、同情を誘って許されることもあるかもしれません。
それは、私に能動的選択の余地がないからです。アルバイトをせざるを得ない。
一方で、遅刻の前日に夜遅くまで酒を飲みまくって二日酔いで出勤するとします。
そこには飲まないという選択肢と飲むという選択しの中から飲むを選んだからそこに責任が生じます。
めちゃくちゃ怒られますね(笑)
しかし、その選択というのは“意志”という未来態が独立してあるわけではなく、あらゆる過去との結び付きで起こるものです。
たとえば、飲みに行かないと最近付き合い悪い等という悪い先輩たちがいたからかもしれません。断れば断るほど独立して仕事がしにくくなることを恐れて“飲む”選択を強いられた可能性もあるわけです。
要するに、意志とは他人がある人に責任を負わせたいとき、初めて生じる現象だということです。
上記の例のように、能動受動の奥行きでは行為の説明しきれないのです。
そこで必要な概念として中導態が登場します。
昔は能動態と中導態の遠近法で考えられていました。
中動態について、アトガー・アランは抽象的な定義として、主語の被作用性をあげていました。
この被作用性には度合いがあり、左端に低度の被作用性、右端に高度の被作用性を位置付けた物差し状の線分を掲げています。
被作用性が低い場合に能動態、被作用性が高い場合に中動態と位置付けていました。
つまり、行為の持つ質や度合いで判断していたということです。
このような尺度では、自由意志のような、純粋な始まりを持つ未来態は存在し得ない。
自由意志とはその信仰のために、ありもしない純粋な始まりを信ずることを強い、我々が物事をありのままに認識することを妨げる。
我々が、中導態のもとに動いている事実を認識することこそ、我々が自由になるための道なのです。