母性、父性とは原理的に発生するもので、私がそれについて今の社会に足りないと思うのは“全体批評した上でそれの上昇が社会に必要だと感じる”という心持ちです。


これは一個人にたいして発揮することが重要というわけでもなく、行為の全体作用の認識や、自分自身の原理の追求、身の回りにある小さな問題解決などがそれに該当すると思っています。






私は販売の仕事をしていますが、お客様に対する父性とかは持ち合わせていません。




その人が幸せになってほしいのはその人が幸せになってほしい人であるからで、客だからではない。



これはほぼ全員に言えることだと思います。



お客様を大切にできるのは、人間は欲に仕えているからです。


自身の評価と繋がらず、給料にも反映されず、商品も会社も好きではない場合、お客様を大切に思うことは不可能です。客には個別に特徴があり、好きな人と嫌いな人が別れるはずです。



お客様を大切にできている人は上記の条件があるからで、その主語は自分自身にあるという認識がない人は、社会に対する父性が足りません。


それを偽って父性が足りないだのお客様は大切だのいっている人は正直、全く信用できません。


もちろん、お客様を大切にしている人の批判ではありません。認知の問題です。欲に仕えていても他人を幸せにしますしね。







これと同様の原理で、私は博愛主義にも否定的な意見を持っています。


みんなを愛するという主義は“みんな”という強迫観念をみんなに押し付けます。


大事にできる範囲というのは限界があります。認知の先を愛することはできません。








つまり、心の問題を定式化して立ち振舞いを強制することで起こることは、それぞれの自己欺瞞そのものです。


その自己欺瞞による不安や不満、溜飲の捌け口となるのが、“決められた立ち振舞いをしない人”を攻撃することです。

サラリーマン的社会規範意識が攻撃性を帯びているのはそのせいであると確信いたします。


そういうサラリーマン的社会規範意識にハマり、立ち振舞いが社会化すればするほど、五感的な原理から遠ざかります。


原理から遠ざかると、元はもっていた母性父性的感覚も退化していきます。

このような状態では、社会規範意識は皆無と言えるでしょう。






実際、上記のような人間、たとえば時間だけを消費して貨幣を得てきただけの人が上司になると、自身の立場を守るために部下を“社会化”させようとします。

これは外形的には父性的温情主義でも、本当の意味では若さというポテンシャルへの嫉妬や、立場を守るための既得権益保護活動でしかありません。






こういった自身のことを多角的に見れなくなるような事情は決して少なくありません。







もし、思い当たる節があれば、自身の発言の原理を見つめ直すことも重要かもしれません。



発言や行動がどこまで結び付くかというメタ認知を遊んでみると、意外な原理的体験を享受し、母性父性へ回帰することができるかもしれませんよ。