いつの時代も、認識の誤差による食い違いは後を絶ちません。
理解という名の不確定情報はあらゆるカオスを生み出し、確信と確信のぶつかり合いが争いとなって表出されます。
一方で、生体心理学では、認識とは行動が与える不動点であるといいます。
例えば、昔の人々は喧嘩の後の立ち振舞いを信頼の糧にしました。
現代は、喧嘩や不都合が起きないことが最も良しとされる無菌室社会です。
科学的根拠や法的正しさの元、不都合を取り除く排他的社会です。
こういったノイズやリスクの無い生活をすると、ノイズレスのシステムに依存してしまい、世界の手触り感を失います。
現に、不都合に対する恐怖心が強い人はSNSなどでよく見かけます。
この、世界の手触り感というのは毎度毎度言っているようなアート的感覚に近いと思います。
私が何に触れあっているかを認識するためには何かを感じなきゃいけないわけで、それが法外にあれば法外に出る必要があります。
法内で手にいれた不確定情報はあくまで不確定情報なわけで、その手触り感はわかりません。
他にも、言語考古学者のバンヴェニストが、『言語は思考を規定しないが、思考可能性を規定する』と言っている通り、言語を取得することが解釈の幅を広げるように、五感が自身に与えた感覚を記憶していると思考可能性を広げます。(記憶にはやはり言語を通ずるが)
このように、あらゆる感覚器官の強化=外の体験を尊重できることがやがて財産となる訳です。
逆に、予定調和的に内面的リクリエーション以外を排斥することは思考停止に陥りやがてBOTとなります。
ただでさえグローバル化 による資本移動自由化による中間層崩壊による鬱屈、溜飲の蓄積といった負のスパイラルの最中です。
そのような状況下では、承認がほしくて右往左往する人と、溜飲を下げたくてうずうずする人を量産されます。
現代のような不確定情報領域では、極端なことを言う人ほど、周囲の溜飲を下げるので承認されやすくなり、それが民主主義的な話し合いになると極端な全体主義的結論に至ります。
これが、サンスティーンが言っていた『集団的極端化』です。
我々は不確定情報領域の中に存在します。
ゆえに、リテラシーを身に付けないことには主体を見出だせないために、BOTにならざるを得ず、システムに依存した機械と化すわけです。
それは即ち、社会の監視ロボになって不都合をを排除していきます。
もちろん、あとは選択の問題なので、システムの一部になるという選択もあるとは思います。
ですが、私のエゴイズムはそうした選択をさせたくありません。それは私の信じるHumanの廃退であり、好奇心の居場所を失います。
そして、それは直接的にあらゆる未規定性を選択に置き換えられ、思考の外側は消え去り、アートが廃退します。
そうならないために、できるだけ多くの人間に原理的感覚や主体を取り戻してもらいたいと願っています。
理解という名の不確定情報はあらゆるカオスを生み出し、確信と確信のぶつかり合いが争いとなって表出されます。
一方で、生体心理学では、認識とは行動が与える不動点であるといいます。
例えば、昔の人々は喧嘩の後の立ち振舞いを信頼の糧にしました。
現代は、喧嘩や不都合が起きないことが最も良しとされる無菌室社会です。
科学的根拠や法的正しさの元、不都合を取り除く排他的社会です。
こういったノイズやリスクの無い生活をすると、ノイズレスのシステムに依存してしまい、世界の手触り感を失います。
現に、不都合に対する恐怖心が強い人はSNSなどでよく見かけます。
この、世界の手触り感というのは毎度毎度言っているようなアート的感覚に近いと思います。
私が何に触れあっているかを認識するためには何かを感じなきゃいけないわけで、それが法外にあれば法外に出る必要があります。
法内で手にいれた不確定情報はあくまで不確定情報なわけで、その手触り感はわかりません。
他にも、言語考古学者のバンヴェニストが、『言語は思考を規定しないが、思考可能性を規定する』と言っている通り、言語を取得することが解釈の幅を広げるように、五感が自身に与えた感覚を記憶していると思考可能性を広げます。(記憶にはやはり言語を通ずるが)
このように、あらゆる感覚器官の強化=外の体験を尊重できることがやがて財産となる訳です。
逆に、予定調和的に内面的リクリエーション以外を排斥することは思考停止に陥りやがてBOTとなります。
ただでさえグローバル化 による資本移動自由化による中間層崩壊による鬱屈、溜飲の蓄積といった負のスパイラルの最中です。
そのような状況下では、承認がほしくて右往左往する人と、溜飲を下げたくてうずうずする人を量産されます。
現代のような不確定情報領域では、極端なことを言う人ほど、周囲の溜飲を下げるので承認されやすくなり、それが民主主義的な話し合いになると極端な全体主義的結論に至ります。
これが、サンスティーンが言っていた『集団的極端化』です。
我々は不確定情報領域の中に存在します。
ゆえに、リテラシーを身に付けないことには主体を見出だせないために、BOTにならざるを得ず、システムに依存した機械と化すわけです。
それは即ち、社会の監視ロボになって不都合をを排除していきます。
もちろん、あとは選択の問題なので、システムの一部になるという選択もあるとは思います。
ですが、私のエゴイズムはそうした選択をさせたくありません。それは私の信じるHumanの廃退であり、好奇心の居場所を失います。
そして、それは直接的にあらゆる未規定性を選択に置き換えられ、思考の外側は消え去り、アートが廃退します。
そうならないために、できるだけ多くの人間に原理的感覚や主体を取り戻してもらいたいと願っています。