お久しぶりです。
最近思ったことを書きます。
それは計算可能なものの時間軸が圧縮されてその場にある状態が連続していて、それを用いた何かをすることに慣れていないからかと思います。
それは、学術的根拠に依存した、計算可能なものの信仰による障壁であり、実際の目的は結果であることの本質を見失うことを意味します。
実際は技術が手の届くところにある状態が連続されているだけなのですが、どこか遠くを見ていてそこにあることがわからない。
ここで生じる問題は、我々がより便利で豊かになるための手段として、〈システム〉を使うのだと自己理解ができる人が非常に少ないということになります。
この〈システム〉がある程度以上に拡がって〈生活世界〉が空洞化すると、もはや『我々』が〈システム〉を使っているとは言えなくなってきて、『我々』や〈生活世界〉というイメージすら、〈システム〉のアーキテクチャだと理解するということになっていきます。
ここで言う〈システム〉と〈生活世界〉はマックスウェーバーの引用です。
物事を計算可能にする手続きが一般化した領域が〈システム〉
役割&マニュアルが優位なコミュニケーション領域。
それに対し、残余の領域が〈生活世界〉。
善意&内発性が優位なコミュニケーション領域。
計算可能な手続きを進めて、監視的記録化していった世の中でIT化が進んでいき、現代では民間企業や個々人が監視的記録を進んで実行します。
かくして今日、『社会』を草刈り場とした各エージェント間に、監視的記録化による権益争奪戦が起こっています。
彼らは本当に無思慮ですので、発生した欲求とご都合主義の正義のみで動きます。しかも、ポジションという武器は本人にとっては絶対でなくてはならないので他人には攻撃的。
このような事態に陥ってしまった環境において、ここからの脱出にはどのようにすればよいでしょうか。
正直、もうそうなった以上は廃退を見届けるしか出来ない気がしています。
そうなった彼らは復活のためには監視を強化することだと信じているので、負のサイクルに陥ります。
無思慮な信仰は空洞化による必然性を帯びており、宛先換えをすることも難しい。排他性を正すことも出来ないでしょう。
合理的なシステム化による廃退というのは皮肉ですね。