組織にいるといろいろな人間的体験があるわけですが、最近は主義や法の攻撃性を目の当たりにしていて、わりと最近は辟易しているところです。

最近の感じたことを書こうと思います。

最近読んだ国分功一郎さんの『中導態の世界』の一部を参照します。

この本はあらゆる対比や度合いの発見や、多角的な視座が見えてきて非常におすすめです。





哲学者ハンナアレントは、アメリカ独立革命とフランス革命を比較して論じた『革命について』という作品で、フランス革命に影響を与えた哲学者ルソーや実際の革命の指導者である政治家ロベスピエールらの思想の盲点を鋭くえぐりだしています。



ルソーやロベスピエールによると、徳とは不運で貧しい人々の心に自然に現れるものだと考えていました。

ルソーやロベスピエールは富める人々の利己主義を目にしていたからです。

富のもたらす安楽は人間から、人間が本来持っている共感性を奪う。つまり、堕落した社会こそが利己主義という悪徳をはびこらせるということです。

それに対し、そのような安楽を経験していない貧しい人々は共感性を持つ。彼らは同じく悲惨な境遇にある人々に共感し、同情することができる。「悲惨の苦悩は善を生み出す」

ルソーやロベスピエールにとって、他人と共に苦悩する同情こそ徳であり善でした。

逆に利己主義こそ社会がもたらした悪徳であり悪だとしました。


こうして善と悪は徳と悪徳にボンヤリ重ね合わされていきます。

フランス革命の人々は、徳は不運な人々が不運であるがゆえにもちうる「属性」であり、貧民の「世襲財産」であるとまで考え、そこに善を見ました。


アレントは彼らのこの確信に根本的な異議を唱えます。

アレントによれば、ルソーやロベスピエールが分かっていなかったのは、『絶対善は絶対悪より危険が少なくない』ということ、そして、徳を超越する善、悪徳を超越する悪があるということだといいます。

これは言い換えれば、善と悪には、人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない過剰さがあるということに他ならなりません。

その過剰さを知っている人であれば、善が徳に背く場合があることをわきまえているはずです。

あるいは、悪徳と言われるものが善の機能を果たす場合もあることもわきまえています。

しかしこの過剰さを知らない人、この過剰さに目を向けようとしない人は徳に絶対的な善の役割を与えようとします。そのとき、一般的に通用しうる、そして通用している規範は、一つの通念に過ぎないにもかかわらず絶対性を手にすることになってしまいます。

人々の同意を根拠とする徳が、人々の同意を必要としない善の性質を身に纏う。相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する。

アレントはこの徳と善の混同に、ロベスピエールが陥った恐怖政治の一因を見ています。







さて、皆様は何かしらの社会接続があり、コミュニティに帰属していると思うのですが、帰属するコミュニティにはコミュニティのルールがありますよね。


そのルールからの逸脱について異様に厳しい人はいませんか?

その人は徳と善の混同を起こしていると言えるでしょう。

しかし人間は現状、法に強制されて生きていかねばならず、法は罪と徳の間を揺れ動くものであるので、善と悪を裁けません。

この本では、天使と悪魔を裁く法はないとしています。

絶対悪、絶対善は裁けない。それでいて人間を裁くことは可能なのだろうかと。

ここで言及している法は制度という意味で、立ち振舞いを強制する、組織のルールのことも含めていっています。

法は絶対的な善ではないという認識がないと陥る排外性は、以前マックス・ヴェーバーが言及したプロテスタントの過激派が陥る神信仰がゆえの排外性と非常に似かよっています。これは絶対的であるという信仰の危うさを哲学的観点から見ても、経済学、社会学的観点から見ても指摘されていて、その信憑性は非常に高いと見ています。


今回、この本の一部分と実際の出来事を結びつけてみると、あらゆる事物を自身の遠近法で捉えたときにその遠近法の外側を想定する認知の視点があるとないとでは大きな差を感じました。


この抽象こそが我々の自由や平和や幸福への近道なのかもしれませんね。