悲劇の洞爺丸 | zojurasのブログ

青函連絡船終航30年を記念して開かれた函館蔦屋書店での展示イベントに行きました。

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青函連絡船をはじめとした船舶模型を造り上げた故釜谷弘氏造型の船舶模型で、悲劇の女王となった洞爺丸の模型がありました。
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洞爺丸 JBEA

全長:118m 全幅:15.9m 重量:3898t 

航海速力:17.5kt 搭載車輛:ワム型18両 旅客定員:932名 建造地:三菱重工業神戸 

同型船:羊蹄丸(初代) 摩周丸(初代) 大雪丸(初代)

終航:昭和22年11月21日 海難沈没:昭和29年9月26日

 
1/80スケールで、150cm近くもある大きなものです。
 
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前から
 
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四本煙突に気品があります。
 
この煙突から蒸気タービンの黒煙を吐いていました。
 
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後の貨車搬入口
 
台風の時、アンカーが海底から外れ、そしてここに大量の海水が流れ込んで船内を水浸しにし、強風でバランスを失わせた船を横転させて海底に叩きつけました。
 
洞爺丸と同じ台風にやられた第十一青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸といった4隻の貨物連絡船も、ほぼ同様の形で沈没してしまった訳でした。
 
父母から聞いた話だと、「連絡船が沈んだ!」というニュースが台風後に流れて、「あんな大きな船が沈むなんて信じられない・・・」と思う人も多かったようです。
 
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こちらは記念館摩周丸にある1/100の洞爺丸。
 
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精密度はありますが、釜谷氏の1/80よりちょっと地味な印象がします。
 
洞爺丸台風の紹介コーナーにありましたが、本来は上の1/80模型が摩周丸に展示されていたのでした。
 
八甲田丸所蔵の洞爺丸模型は、同じく1/100。
 
今では台風の惨禍ばかりが伝えられる感じもする洞爺丸ですが、戦後の青函航路や、日本の造船業を立て直す意味合いや、復興の象徴にもなった船でもあり、台風の一ヶ月前には、天皇皇后を運ぶお召し船にされた事もあったので、洞爺丸にとっては、最後の栄光だったと思えます。
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こちらは補助汽船の第三鉄栄丸
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洞爺丸と同時期に登場し、活躍した縁の下の力持ちです。
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連絡船をサポートするに欠かせない存在でした。
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因みにこの画は、故石ノ森章太郎による洞爺丸。
 
洞爺丸事件後に青函トンネルが・・・とよく言われていますが、実際には青函トンネル構想は戦前の満州国建国当時からあり、青函トンネルや、サハリン(樺太)と大陸、そして開門橋や開門トンネルに、対馬経由の朝鮮半島に繋がる海底トンネルを・・・・・・等という、良くいえば夢がある、悪く云えば「そんなモン無駄に繋いでどーすんの?」というものからでした。
 
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漫画でのトンネル工事での事故に苦闘する人々の様子。
 
氏が描いた青函トンネル完成を伝える漫画ですが、連絡船を無くした憎っくきトンネルを持ちあげる漫画なんぞ、正直なところ描いて欲しくなかったし、その青函トンネルも、建造から30年で各所にガタがき始めてるとの事なので、やっぱり連絡船は廃止すべきでは無かったと思えてきます。
 
トンネル掘るより、新造船を造った方が遥かに安上がりだという声が、当時の函館市民からも上がっていたのですが、結局その声が国の中枢に届くことは無く、現在は更に無駄の塊でもある新幹線なんてモンが通るようになって、元気が無くなってしまった感じです・・・・・。