機動部隊壊滅 | zojurasのブログ

 

本日は70年目のマリアナ沖海戦の日です。

 

ミッドウェーから2年後、日米の攻防戦は既に変わっており、アメリカ軍は物量と、陸軍との共同によりカエル跳び作戦を実行し、太平洋の日本の島々を次々と制圧、占領し、日本は敗走(「撤退」「敗北」という言葉を頑なに嫌う日本は「転進」という言葉を主張し、劣勢をごまかし続けた)を続けていました。

 

そんな日本はサイパン司令官に任命された南雲中将に変わり、航空戦という分野に目を向けていた小沢治三郎中将を機動部隊の指揮官に任命し、遅まきながら、航空分野の指揮官が陣頭に立ち、5月中旬~6月上旬にかけて、タウイタウイ泊地に連合艦隊の艦艇が集結し、絶対防衛圏と言われたマリアナ諸島の防衛の為に米艦隊を迎え撃とうとしました。

 

戦力は最新鋭重装甲航空母艦「大鳳」に、ミッドウェーでの4空母喪失後、機動部隊の中核となった空母「翔鶴」「瑞鶴」をはじめ、客船改造空母「準鷹」「飛鷹」、高速給油艦改造空母の「龍鳳」「瑞鳳」、水上機母艦改造空母「千歳」「千代田」という布陣で、これに別働隊として戦艦「大和」「武蔵」「金剛」「榛名」の4戦艦をはじめとする戦艦部隊に巡洋艦隊、駆逐艦隊が加わっていました。

重装甲空母「大鳳」

 

これに対し、アメリカは最新鋭空母のエセックス級空母と歴戦の強者となった初代エンタープライズ、軽空母のインディペンデンス級、カサブランカ級をはじめとした護衛空母群を展開し、アイオワ級戦艦をはじめとする戦艦部隊も戦力面で日本を完全に上回っていました。

 

日本側は「アウトレンジ戦法」を考案し、敵との中継点に防御力の高い大鳳を配置し、そこで補給を行い、本体の機動部隊は後方から大鳳に向けて発艦し、大鳳に立ち寄って補給、あるいは戻ってきて大鳳からすぐに補給して再出撃という作戦で、立案した小沢治三郎中将は自信満々に、これで後方の機動部隊は攻撃を受けず、一方的に攻撃を加えることが出来るはずでした。

 

この小沢中将の発想と着想は理に適っていたものでしたが、実戦でその目論見は見事に失敗に終わりました。大鳳から1905年の戦艦「三笠」、そして、真珠湾攻撃直前の空母「赤城」と同じく「興国ノ興廃、此ノ一戦ニ有リ」を示すZ旗が掲げられた6月19日、攻撃隊が発艦し、米艦隊に向かっていきました。

 

しかし、攻撃隊の艦上攻撃機「天山」と、高速攻撃機「彗星」と、護衛の零戦部隊はアメリカ側の迎撃体制に捕捉され、アメリカ側はF4Fワイルドキャットの後継機であり、廬穫した零戦を参考にして創り上げたF6Fヘルキャットをラバウルから配備し、高速さと頑丈さが取り柄のヘルキャットに対し、防御力が皆無の零戦は撃ち落とされ、なお悪い事に攻撃力向上と、航続力向上の為に燃料タンクと機銃弾の搭載量が増していたものの、それが只でさえ防御力が弱い零戦の撃墜率を向上させてしまいました。

 

そして、アメリカは渡米した八木技師の技術によって改良されたレーダーで迫る日本機を捕捉し、一方的な対空射撃を浴びせ、その対空砲火にはアルバート・アインシュタインが開発したVT信管と呼ばれる気燃性の自動火薬が含まれ、敵機が近寄っただけで炸裂するものにより、日本機は満足に魚雷を投下できず、一方的に叩き落とされ、航空部隊のおおよそ9割以上が壊滅し、アメリカ側から「TARCKY SHOT BY MARIANA(「マリアナの七面鳥狩り」)」と呼ばれる惨憺たる有様でした。

 

日本側は第一陣が発艦した時点で勝ったと思い込み、祝杯を挙げる準備までしていたものの、その目論見は外れ、帰還してこない部隊に不審を感じ、第二陣を発艦させようとしていたその時、大鳳に米潜水艦「アルバコア」が放った魚雷が命中しました。大鳳は前線での楯になるような空母だった為に、1発の魚雷では音を上げない筈でしたが、魚雷命中のショックで揮発性ガスが発生し、艦をエレベーターを上げた際に密閉状態にした為に気燃性のガスが満載し、元々密閉型の艦体に設計していたのが仇となり、大鳳はそのガスに引火し、爆発炎上を起こして致命傷を受けてしまい、戦線に加わってたった3ヶ月で空しく沈没してしまいました。

連合艦隊期待の空母は初陣で散った

 

ダメ押しの一発が今度は歴戦の空母翔鶴にも襲いかかり、米潜水艦「カヴァラ」の魚雷が翔鶴に命中、翔鶴は航空燃料に引火し、炎上して沈没してしまいます。その翔鶴が被害担当艦となっていた為に、開戦以来、一発も攻撃を受けなかった「幸運艦」の異名を持っていた瑞鶴にもとうとう敵の攻撃が及び、瑞鶴は初めて損傷を受けてしまいました。

 

更に翌20日、客船改造空母の飛鷹に米機動部隊の攻撃が浴びせられ、元が客船故に防御力が弱かった飛鷹は奮闘したものの、大鳳、翔鶴の後を追う形で沈没してしまいました。

航空母艦「飛鷹」

 

日本側は大和、武蔵らが襲いかかる米機動部隊に主砲を放ったものの、それでも撃ち落とせたのはせいぜい20数機で、これに長門の戦果を足してもたったの30機余り。しかも、攻撃目標は空母だったので、大和と武蔵はこの時、敵の攻撃対象とはならなかった為に被害を受けなかったので、なんのフォローもアシストも出来ませんでした。(尚情けなく、笑えないことに、アメリカは本作戦で夜間着艦の失敗事故で失った機数の数が多かったのだという。)

 

日本機動部隊はここに事実上壊滅し、絶対防衛圏は崩れ、サイパンとテニアンは玉砕(真珠湾攻撃の南雲中将が「死シテ、遼囚ノ辱メヲ受ケル事ナカレ」の言葉と共に自決し、島民も次々と自決して言った悲劇へと繋がった)し、とうとう日本攻略の足がかりをムザムザ敵に創らせてしまい、そして、台湾沖航空戦と、レイテ沖海戦で完全に戦力を失ってしまい、日本は連日の空襲にさらされていくのでした。

 

こうして、日本は無惨に敗れ去り、B-29の空爆標的にされてしまった訳です。

小沢中将は本海戦の敗戦を採って辞任するつもりでしたが、結局はレイテで、機動部隊の死に水を取る形となってしまいました。

 

小沢中将は戦後、「訓練も充分でなかった若年達に、荷が重すぎる攻撃をさせ、犠牲を造ってしまった。」と言っていましたが、この少し前、連合艦隊参謀だった福留中将が、古賀長官事故死の時に生き残ったものの、マリアナでの日本の作戦資料を現地ゲリラに押収されていた為に、日本のやることは筒抜けだった訳で、これにベテランのパイロットを失い、飛行時間も短く、ようやく復帰の兆しが見えてきた機動部隊をみすみす虎口に飛び込ませるきっかけを造ってしまうのでした。

 

そうでなくても、日本の思い込み主義と、情報軽視、敵の戦力の過小評価が敗戦の根底にあったのでしょうが、他にも日本機防御力軽視で、「攻撃は最大の防御」という考えが本作戦での犠牲を強いたと言えます。敵に攻撃できればいい、だけど、そこまで行けるのか?補充は効くのか?となると、あまりにもそれを軽視していたし、「防御こそ最大の攻撃」という理論や矛盾を終始、改めない印象がありました。

 

それは大鳳にも言えることで、大鳳はたった一発の、本来ならその程度で沈まなかった筈の攻撃がきっかけで沈んでしまいましたが、大鳳は乗組員達がまだ艦に慣れきっていなかったというのがあるし、エセックス級空母と比べると、装甲防御以外の全ての面で見劣りし、特にダメージコントロール技術の差はいかんともし難いものでした。俗に云う「想定外」というのもあったのではないでしょうか。

 

もし、ここで大鳳が沈まなかったら・・・という考えもありますが、そんな防御構造のおろそかな面を突かれて、多かれ少なかれ、後の「信濃」のようにあっさり沈んでしまう運命は避けられなかったとも思いますし、どのみち、この空母が加わった所で劣勢は覆せなかっただろうという気がします。そして、この敗戦をきっかけに日本中が空襲にさらされ、民間人、軍人を問わない多くの命が更に失われていった重い現実も受け止めるべきでしょう。

大日本帝國海軍航空母艦「大鳳」(前)

全長:260・60メートル 

全幅:30・30メートル 

排水量:34200トン 

出力:160000馬力 

速力:33ノット 

搭載機数:53機 

武装 

:65口径10センチ高角砲12門 

:25ミリ三連装機銃22基

:昭和16(1941)年7月10日 川崎重工神戸造船所で起工

:昭和18(1943)年4月7日 進水

:昭和19(1944)年3月7日竣工  6月マリアナ沖海戦参加。6月19日 米潜水艦アルバコアの雷撃を受け沈没

:昭和(1945)20年8月31日 除籍 

航空母艦「飛鷹」

全長:219.32m

全幅:26.7m

排水量:24140t

出力:56250hp

速力:25.5kt

武装:40口径12.7cm砲×12 25mm機銃×24

乗員:1187名

同型艦 準鷹

:昭和14(1939)年11月 日本郵船「出雲丸」として起工

:昭和15(1940)年11月 進水 航空母艦への改装がはじまる。

:昭和16(1941)年2月10日 海軍に買い取られる 6月24日 進水

:昭和17(1942)年7月31日 竣工 10月 南太平洋海戦に参加するものの、機関不調により帰還。

:昭和19(1944)年6月19日 マリアナ沖海戦参加 20日 長門が護衛中に米機の攻撃を受け沈没 8月10日除籍