10日間の艦命 | zojurasのブログ

本日は70年前に日本史上最大でかつ、最後に建造された空母であり、大和級戦艦を改造した事でも有名なまぼろしの巨大航空母艦信濃 が戦場に赴くことも無いままに空しく沈んだ日でもあります。

大和級戦艦改造空母信濃

 

1944年11月28日の午後、横須賀を離れた一隻の航空母艦がありました。

 

『信濃』と命名されたその艦は、元々は史上最大でかつ最強の戦艦である大和の3番艦として建造される筈でしたが、真珠湾奇襲攻撃によって、戦艦の存在意義に疑問性ができ、既に完成していた『大和』と、完成が近付いていた『武蔵』と違い、信濃はしばらく、工事が見送られ、ミッドウェー海戦での4空母喪失により、急遽、航空母艦として建造されました。

 

しかし、南方の戦地から損害を受けて帰還してきた艦艇の修理による事情と、熟練工が大量に兵隊に取られ、若年工(中には女子工員すらいた)だけで工事は思いのほか進まず、1944年10月5日にはようやく信濃は空母としての形となったものの、進水式の日の手違いで艦体を損傷してしまい、これによってレイテ海戦に間に合わせることができず、結局、一応の完成となった11月19日には既に日本海軍には満足に戦える艦艇が殆ど残っていませんでした。

 

それでも信濃は日本最後の新造航空母艦として期待され、重装甲空母『大鳳』に負けない空母となるよう、東京湾上では発着実験も行われ、何とか空母として使えるようにしていたものの、マリアナ沖海戦の惨敗と、テニアン島から飛び立つB-29の攻撃により、信濃はその空襲を避ける為に夜間回航され、呉で最終擬装を済ませるつもりでした。

横須賀を出る信濃

 

この時期、日本海軍は多くの艦艇を飛行機のみならず、潜水艦の攻撃で失っており、当時から信濃の回航には危険視されていたものの、追い詰められた戦局故に信濃は回航されたものの、29日午前3時17分、信濃は護衛艦数隻に守られ、浜名湖沖を回航中、アメリカ軍潜水艦『アーチャーフィッシュ』に捕捉され、4本の魚雷を右舷に浴びました。

 

元々が最強最大の戦艦である大和級の艦体を改造しただけにそれだけの魚雷にはビクともしないはずでしたが、対水工事と水密擬装が不完全だったため、午前4時00分、信濃の浸水箇所は次第に増していき、午前4時30分から午前6時00分にかけて、信濃の浸水と傾斜は激しくなり、結局午前10時57分、信濃は回航された潮岬沖111度55海里の地点で転覆、沈没し、艦長阿部敏雄大佐を含む1600名近くの乗員達の命が消えました。

 

信濃の沈没の原因は水密工事の不備と不完全な擬装の他にも、乗組員の多くが新造艦故に慣れていなかった様々な不運まで重なり、どんな軍艦でも慣れるまでにはそれなりの月日が必要だったものの、信濃にはそんな機会も時間も与えられず、まるで潜水艦の格好の標的となるかのような処女航海となってしまいました。

幻の超巨大空母はわずか10日の命だった。

 

21日には台湾海峡沖で、『金剛』が台湾海峡沖で駆逐艦『浦風』と共に、12月19日には『雲龍』も東シナ海で航行中、米潜水艦『レッドフィッシュ』の雷撃によって沈没してしまったのですが、信濃も金剛も雲龍も沈んだ原因は魚雷の当たり所が悪かった(信濃は未擬装区画、金剛は主砲装甲近く、雲龍は桜花格納庫付近に)のが最大の要因ですが、それでも、そういった弱点を突かれて・・・・・・というポイントはミッドウェーの頃から既に明らかになっていた事ではあったが、その弱点を改良するだけの余力と技術が既に日本にはなかったのでした。

 

『世界三馬鹿・無用の長物』というのはピラミッド、万里の長城、そして戦艦大和であると云われるものの、信濃は大和や武蔵以上にその言葉が当てはまってしまった哀しい存在となりました。

 

こうして信濃はたった10日という短い艦命を終えてしまったのでした。

信濃の沈没は本当に勿体ない以上に、どうしてこんな事になってしまったのかという部分を大鳳以上に伝えています。元々戦艦として創られながらも、後で空母に改造された艦としてイギリスの『イーグル』『カレイジャス』『グローリアス』、アメリカの『レキシントン』『サラトガ』、そして日本の『赤城』『加賀』と信濃という具合ですが、信濃はこれらの艦の中で一番最後に創られてかつ、一番巨大な空母だったのですが、もっとも短い寿命の艦にもなってしまいました。

 

太平洋戦争時の改装日本空母としては客船改造空母の『隼鷹』『飛鷹』などがありますが、それらの艦程活躍できず、しかもそれらの艦よりも遙かに頑丈(隼鷹は辛うじて戦後まで生き延びた)どころか、大和という最高の戦艦が母体であるにも関わらず、敢えなく沈没してしまった事に何とも皮肉を感じるし、艦というモノが単に創ってしまえば良いというモノではない事も物語っています。

 

又、信濃がこの時点で生き残ったとしても、活躍できたかどうかも疑問の枠から出ません。それというのも信濃の搭載機数は47機、これは正規空母だった翔鶴と比べると半分近く搭載機数がダウンしてしまい、空母の打撃力の中核である搭載機が少なかったというのはある意味、致命的です(それ以前に、日本に飛行機とパイロットが既にいなかったのもあるのだが。)。大鳳と比べても少なかったので、活躍できたのか?というと答えに詰まってしまいます。

 

因みに、信濃を創る為にわざわざ創り上げた横須賀の3号乾ドックには戦後、米空母がメンテを行う為に使用しているのですが、信濃による怨念が宿っているのか、『ミッドウェー』『インディペンデンス』『キティホーク』『ワシントン』といった歴代米空母の搭載機が必ずといって良い程事故を起こしていますが、そういう事もあまり知られていない軍事の負の側面です。

 

大日本帝國海軍航空母艦信濃 

全長:266m

全幅:40m

排水量:62000t

機関出力:150000Hp

速力:27Kt(予定)

武装:

40口径12・7センチ高角砲:8基

25ミリ三連装機銃:35基

25ミリ単装機銃:40基

12センチ28連装噴進砲:12基

艦載機:47機

 

昭和⒖(1940)年5月4日、大和級戦艦三番艦として横須賀で建造開始。

昭和17(1942)年9月11日、航空母艦として建造が変更される。

昭和19(1944)年10月5日、進水時に事故を起こし、艦体を破損する。 11月19日、海軍に引き渡され、『信濃』と命名される。 23日、東京湾で訓練開始。 28日、呉で最終擬装を行う為、横須賀を出港。 29日、浜名湖沖で米潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃を受け、午前10時57分紀伊半島潮岬沖に沈没。

昭和20(1945)年8月31日、除籍。