中国の隋&唐代にフォーカスしてみた | いまここで

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スクールを通した変化や自分の道を歩む今の話、感じることや学ぶこと。

スクールで「中国の賢者の過去がある」と言われた体験や、中国北魏時代あたりの夢を二度見ていること、


なんとなくみた映画「西遊記~はじまりのはじまり~」で、北魏時代の夢で見た懸空寺が出てきたことなど、


中国の北魏時代、唐代の出来事が最近立て続けに出てくるので、西遊記の三蔵法師として知られる、玄奘三蔵を中心に調べてみた。


また、夢で出てきたキーワード「北魏時代あたりの寺院」「素朴な兄とイケメンの弟の兄弟」「兄弟」「お使い」に関係しそうな事象もピックアップ。登場人物や出来事、場所をざっくばらんにまとめます。


玄奘 その1

 

602年生まれ。兄・長捷と共に洛陽の浄土寺に学び、10歳で「維摩経」「法華経」を唱えるようになる。11歳で出家。

出家のための試験が受けられない11歳という若さで、出家が認められたという、まさに神童。13歳で「涅槃経「摂大乗論」を学ぶ。わたしの中学時代なんて、ぼんやりしていたもんよ。すごいな、玄奘。

随の力が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄・長捷と長安の荘厳寺に移る。長安の街は戦のためドタバタしていて、玄奘の望む学びが得られない。玄奘は隋の皇帝・煬帝が洛陽に集め、後に益州に散っていった名僧を訪ねて、益州巡りをしようと心に決める。

 

ちなみに、いろんな資料を拝読すると、玄奘はめっちゃ体力のあるイケメンだったらしい。

洛陽
紀元前の東周王朝、西暦25年の後漢、魏、北魏時代の都。隋・唐代の副都。街や寺院が廃れていったり、再興したり。

長安
隋・唐の時代の首都。唐代には世界最大の都市になる。日本の平城京や平安京は長安にならったとされる。

随王朝(581年~618年)
魏晋南北朝時代の混乱をおさめて、文帝がおよそ300年ぶりに再統一して随王朝を建国。息子の煬帝(ようだい)の失策で滅亡後は、唐が中国を支配する。学生時代に世界史で習って、「ようだい」という読み方だけ覚えていた。そういえば。

文帝
奥さんが超強くて、「自分以外の女と絶対に子どもを作るな!」と約束させていたらしい。正妃、側妃(日本の正室、側室)(なんなら寵姫も)が当たり前だった時代に、なんと強気な。でも、文帝はちゃんと守っていたそうだ。真面目~。

 

はじめは長男・楊勇が皇太子だったけれど、派手好みで女好きだったので、貞淑・質素な文帝&奥さん夫妻から嫌われ、次男・楊広が皇太子に。

文帝は病床に伏せていた頃、皇太子に据えていた次男・楊広の本性(後述)を知って激怒。やっぱり長男を皇太子に、と策略するも崩御。一説では次男の楊広に殺されたとも言われている。

煬帝
随を建国した文帝の次男・楊広。即位後、すぐに文帝の長男・楊勇を探し出して殺害。弟の漢王・楊諒の反乱も抑え、兄弟たちを策謀によって殺害する。洛陽城を建設しようと、民衆に金銭的、体力的な負担を強いる。フランス王朝に似ているなぁ。

当時の仏教
574年に北周の廃仏で仏教は壊滅的ダメージを受け、山岳仏教の形態で続いていく(日本の明治期あたりの廃仏毀釈みたいなもの)。

 

581年に興った随王朝は仏教再興政策をとる。589年の南北朝統一により、南部の観念的な仏教と、北部の渡来僧による仏教を統一した国家仏教(シナ仏教)の成立に力を入れた。中心となったのは仏教都市であり首都の長安だった。

洛陽の情勢が不安定
煬帝の失策で随の力が衰えたことにより、当時の都の長安、副都の洛陽も情勢不安に。
 

玄奘 その2

 

玄奘は619年に兄・長捷と成都へ。「阿毘曇論」を学び、先人を訪ねて益州各地をまわり、「涅槃経」「摂大乗論」「阿毘曇論」を研究。歴史や老荘思想の見識も深めた。完全に研究者の生き方ね。

兄・長捷は成都の空慧寺(現在はもうなくなって田畑になっている)に留まったので、その後、玄奘は一人で旅に出た。商人と一緒に三峡を下り、荊州の天皇寺で学び、相州、趙州を訪れ「成実論」「倶舎論」を学んでいる。旅する研究者だ!

荊州、相州、趙州
現在の中国のまんなかあたり。上海がある省とか、武漢がある省とか。
 

玄奘 その3

 

仏教の研究は原典によるべき、と考えた玄奘は、経典を求めてインドを目指してこっそり出国。

 

と、wikiにはあるけれど、さまざまな資料を参考にすると、実際のところは「わからんことがあるから、直接現地で聞いてしまおう」と思ったそうだ。

 

今で言う、「ググってもわからんなら、聞けばいい」。そんな心持ちで往復数万㎞という何年かかるか分からない旅に出てしまう玄奘。アグレッシブすぎでしょ。

 

道程はざっくり省略、玄奘はインドで学問を修めて657もの経典を長安に持ち帰った。

 

その後、経典の翻訳に集中したかったのに、時の皇帝から「西域を旅した情報をまとめるように」と言われてしまう。その時に書かれたのが「大唐西域記」だった。

 

「大唐西域記」も書かないかんし、翻訳作業も膨大だし。翻訳は大慈恩寺を拠点に玄奘の弟子たちが手伝ったらしい。玄奘自身は生きているうちに経典の3分の1の翻訳しか進められなかったが、後に弟子たちが成し遂げた。

大唐西域記
玄奘が口述し、弟子の弁機が筆録。649年に完成。

弁機
唐代の僧侶。唐の皇帝の娘・合浦公主(人妻)と付き合っていて、皇帝の怒りを買い、斬られて死んだ。

合浦公主
唐の皇帝・太宗李世民の娘。房遺愛の奥さん。弁機と恋に落ちる。

般若心経
玄奘が翻訳したとされている。

玄奘の弟子・基
訳場で中国語をチェック。五台山に遊方した経験があり、道宣との交際もあった。多くの著書がある。

道宣
律を学び、禅観も修めた。その後、各地を遊学。玄奘が帰朝すると、長安の弘福寺の訳場に招かれた。西明寺で「四分律」の注釈の執筆など、律の研究に没頭し、後に南山律師と呼ばれる。


仏教における生活規範。規律、戒律のこと。

鑑真(687~763年)
道宣の弟子、文綱系統の僧侶。日本に渡ろうとするも、五度失敗。過酷な体験から、ついには失明する。その後来日を果たし、奈良で唐招提寺を建立。戒律を伝え、日本の仏教の発展に寄与している。

玄奘の弟子・道昭(629~700年)
現在の大阪府堺市出身の法相宗の僧。道紹や道照とも。遣唐使の一員として653年に唐に渡り、玄奘に師事する。玄奘に可愛がられて、同室で暮らしながら指導された。玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅。660年に日本に戻り、飛鳥寺の片隅に禅院を建立して住んだ。全国を遊行し、土木作業を手がける。日本で初めて火葬された人。

道昭の弟子、行基(668~749年)
天智天皇の時代の僧侶。朝廷が民衆への仏教の布教を制限していた時に、行基集団をつくって近畿を中心に布教し、民衆から圧倒的な支持を得ていた。聖武天皇に奈良に招聘された、東大寺造立の実質上の責任者。後に四聖と呼ばれる。困窮者の救済や社会事業に力を入れた。

四聖
奈良時代に東大寺の建立に携わった、聖武天皇・婆羅門僧正・行基・良弁の4人。

 

 

調べものは以上。

 

何かピンとくるかと聞かれると、正直なところ、ぼんやり。あれ?とは思うけれど、ぼんやり。

 

ただ、この時代の中国に生きた方々はとても強い精神力をお持ちだなと感服した。

 

「その考え方、わかる〜好き〜」と共感するところもたくさんあるし、見習いたいところもたくさんだ。

 

中国のこの時代にフォーカスすると、日本で起きた600~700年代の戦いとか、中大兄皇子(天智天皇、626~671年)が、やや遠くなるなぁ。

 

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関係ないけど久しぶりに熱が出ました。だるいゲホゲホ