10月27日弟が亡くなった。

といっても発見されたのは、3週間もたった11月16日。

孤独死というやつだ。

管理人さんから電話があり、近くに住んで知る母が電動車いすで見にってわかったのだ。


母から電話があったときもちろんものすごくショックだった反面、「ああ、とうとう来たか」という思いだった。

それにしても、なんとあっけなく逝ってしまったのだ、という思いが強い。


弟は、アルコール中毒にほぼ近い状態で、

会社も辞め、次の会社も1カ月も続かず、ここ半年は

無職だったようだ。

発見したとき、弟は肘枕で横を向き、テレビを見ている状態で

テレビは3週間付きっぱなしだったようだ。

ということは、寝ている状態でなくなったということで、苦しむということはなかったようだ。

それがせめてもの救い?

なのか・・・


姉である私は一滴も酒を飲めないのに、兄弟で皮肉なものだ。


私と弟は、決して仲が良くはない。

喧嘩をするという以前に、弟に私はいつも拒否されているような感じだった。

なぜなのか?理由はわからない。。

声をかけるのも怖くて、家族全員が、腫れ物に触るように接していたと思う。


弟は大学卒業まではエリートだった。

背も高く、目鼻立ちも整っており、色白で外見も私とは大違い。

早稲田の建築学科という、東大よりも難しい学部に見事入学し、

一級建築士にもなった。

しかし、仕事はうまくいかなかった。

独立しても、仕事を取って来ることが下手で、弟を支える妻もいなかった。


長く付き合っていた彼女は居たのだが、今から2年前に別れてしまった。

今思うとそれがきっかけで

どんどん悪い方向へ落ちて行ったようにも思う。

とにかく、私とは年賀状一つやり取りすることもなく、こんなに疎遠な兄弟はいないのではないかというほど

縁の薄い関係だった。


それでも、今回の弟の死は私に大きな影響を与えている。


ときどき、いや殆ど毎日いろいろな思いが、交錯する。


弟は私にとって何だったのか?

私は弟にとって何だったのか?

いくら、苦しまなかったとはいえ、ほとんど誰とも付き合いもなく、

あのワンルームで死ぬなんてあまりにも可哀そうだと思う。

本当にさびしかったのではないかと思うととても悲しい。


そう考えると突然ではなく、かえって、たとえば入院してくれて、

その間に弟と話をしたかった。

とそう思う。


私は父母とも縁が薄い。

弟がなくなったからと言ってそちらの修復もできない。

父母が死ぬまで、和の固い心は変化しないのだろうか?

どうしようもない気持ちだ。


でも、これからも私は生きていゆく。

きっと父母は私が見送ることになるだろう。

そのあと、初めて家族のことを本当に考える気持になるのだろうか?


おそらく余計な御世話。
職場が歌舞伎町にある私にとって、歌舞伎町は時折り、歩かざるを得ない場所だ。
うちのスタッフと昨日、ミスタードーナッツの横のAYAという喫茶店(軽食もあり)にはいった。
ここは24時間営業のようで、ひっきりなしに、人の出入りがある。飲み物はALL390円と、比較的安い。


ちなみに、メニューも豊富だ。コーヒーも結構いける♪
ところで、この界隈で目立つのは、カラオケ・居酒屋の呼び込みと、ホストの群れ。
もちろん皆若い男の子たちだ。
みな、ばりばりの茶髪で、ぴちぴちのファッション。


一見、かっこいい格好なのかもしれないが、私にはそう思えない。
なんか薄汚れ、若者なのに、若者らしくない。

そういうホスト?の一群れがAYAの地下席でたむろっていた。
街角でたちんぼうに疲れ休憩しているのだろうか?
だらしなく腰を掛け煙草をふかしながら、うつろな雰囲気。
みな痩せて、ぱさぱさの髪。個性のない顔。
何で彼らはここでホストをしているのか?
楽だと思ってこの世界に入ったのか?
わからないが、少なくとも生き生きとした若者らしさはない。
むしろ、疲れた老人のよう・・・というか、野良犬の群れのようだ。


こんな失礼なことを書いて申し訳ないと思うが、
なぜか悲しくなってしまう。
余計な御世話といわれるだろうし、だったら何かしてあげられるのか?
といっても何もできない(しようとしていない)

けれども私も一度は親になったことがある身だからかもしれないが
ふびんで仕方なくなるのだ。
おそらく彼らなりに仲間意識もあるし、楽しいこともあるかもしれない。
私がかわいそうなどと思うことに、余計な御世話だろうし、決めつけてはいけないとも思う。
でも、彼らはやっぱり、悲しげだと思う。
どうしてよいかわからないのかも?


あなた方は、日本の宝、自分をもっと大切にしてほしい。
なんとか自分の人生を生きがいのあるものに変えてほしい。
この泥沼に気づき、抜け出してほしいのだ。

肉食について



最近、日本でもベジタリアンが増えているようだ。
考えてみたら、日本人が肉食を始めたのは
ほんの100年ほど前で、しかも今のように食べだしたのは40年もたっていないと思う。
日本ではそれまでほとんど肉を食べるという習慣はなかったし
ベジタリアンなんて言葉もなかったのではないだろうか。

「食の作られ方」?とかいう映画があるそうで、
その内容は観ていないのでわからないが、なんとなく想像できる。

おそらく、気がめいってげんなりする内容なんじゃないかな?

でもちょっと、考えてみよう。

いまや、道を歩いてみると、焼き肉屋の多さに驚く。
焼き肉だけでなくハンバーガー、定食屋やファミレスでも
肉を使用していないメニューを探すのは困難だ。

そうだよね、だってお肉おいしいから・・・

えっと・・・
先日もベジタブルスープというメニューを注文したところ
ベーコンがしっかり入っていた。
この状況は本当に異常だと思う。
私が子供のころはまだ肉を食べることは特別なことだったように思う。
それが今や、意識して食べないようにしないと
肉を食べない日がないほどになっている。

牛・豚・鶏の肉を生み出す牧場は、工場化していて、
効率よく肉を市場に送り続けているが、
そこには生命が宿っている生き物を扱っているという
観念がすでにないのではないか?
私たちだって直接手を下していない加工されたきれいな肉料理が、

食卓にのぼった時、生命を絶ってるという感覚はほとんどもっていないのではない。
もし、目の前に、生きた牛がいても、躊躇なくその料理を食べられるか?
食欲は落ちるよね。

かたや、犬猫に対してはかわいい、といいながら平気で食べていることに矛盾を感じないのか?

(こないだ見た子牛(黒いからきっと肉牛)の目はものすごく可愛かったよ)
ちょっとは矛盾が頭をよぎっても、見て見ないふりをして食べているのだ。
私もベジタリアンではないが、今の
「肉。肉。肉」の食のあり方には、さすがに疑問を感じてしまう。

でも、すぐにベジタリアンになることは仕事上、外食が多いと
人間関係を円滑に運ぶ上でも難しいのよね。
しかし、極力、特別な日に限るようにしたい・・・
たとえば、1週間に1回とか?
しかし、本当に、外食で野菜だけを食べることが難しい・・・。


ところで、マクロビオティックとか、ベジタリアンに対しても
なんとなく違和感を感じる。
なんか自分たちは特別な人間みたいに思っているようで・・・
なんか、ベジタリアン=善人です。みたいな感じ。
しかもマクロビの食べ物は高い。
貧乏人は拒絶されているような気がして、ムカつくのだ。