また走る。走る、走る……振り返る。
木の陰に白い着物。さっきよりも更に近い。
「ううううう……!」と、恐怖でうめき声が漏れた。

“だるまさんが転んだ”を連想してもらえば分かり易いだろうか。
走りながら後ろを振り返ると、さっき振り返った時より近い位置に立っている。
全力で逃げてるのに、振り返った時、
そいつは今まで走っていた素振りもなく、さっきよりも近い位置に立っているのだ。

もうすぐ麓の民家がある集落へ出る。
また振り返ると、3メートルくらいの位置に立っていた。
一瞬だが顔が見えた。目元はべったり張り付いた髪で隠れていて、口がモゴモゴ動いていた。
前を向いて、走る、走る。
もう振り返る勇気は無かった。
次に振り向いたら、俺の背中ぴったりのところにいるんじゃないか。
ゼヒュッ、ゼヒュッ、と呼吸困難寸前になりながら、集落へ。
最初に目に付いた家に飛び込み、呼び鈴を狂ったように連打した。
「誰か!!誰か!!」
俺が騒いでいると、家の中からおばあさんが出てきた。

「なんだいな。どがぁしただ?(どうした、の意味)」
俺の様子を見て驚くおばあさん。
そりゃそうだろう、いきなり大の男が息を切らしてやってきたら。
「すいません、……あの、俺の後ろ、何かありませんか?」
「…なんもあらあせんがな」
言われて恐る恐る振り向くと、確かにあの女の姿は無かった。

ああ、これは駄目だ。
現実離れした光景を見ながら、俺は妙に冷静にそう思った。
見てはいけないものを見た。
関わってはならないものだ……逃げよう。
俺が一歩後ずさると、女がぐらっと揺れて、顔を左右に振り始めた。

ぶるぶる。
ぶるぶる。
ぶんぶんぶんぶん……
振り幅が段々と大きくなり、長い黒髪が大きく振り回される。
「テーーテーーーシャーーーィィカーーーョーーー」
何を言ってるのかさっぱり分からないが、とにかく異常だった。
俺は逃げた。

全力で来た道を走る。
たぶんこの時、俺は無表情だったと思う。全ての感情を凍らせて、何も考えずに逃げる。
少しでも何か考えれば、悲鳴一つでも上げれば、正気と恐慌の拮抗が崩壊してしまうと思った。
パニックに陥るのを阻止するための本能だったのかもしれない。

藪を掻き分けて、元の登山コースに転がり出る。
そこで呼吸を整えながら来た道を振り返ると、20メートルほど離れた藪の中から、黒い頭が出ているのが見えた。
「—————」
硬直した。
頭しか見えないが、あの白髪混じりの黒髪はさっきのあいつだ。
動かずに立ち止まっているようだが、追ってきてる?

すぐに一目散に逃げた。登山道をひたすら駆け下りていく。
走りながら首だけで後ろを見る。
登山道横の木の陰に白い着物が見えた。さっきよりも近くにいる。

「———……ょー……」
声が中から聞こえた。
この時俺はもう泣きそうな心境だった。
普通に考えて怖い。あまりにホラーすぎる。ここから逃げたい。
その一方で冷静な思考もあった。
幽霊や怪物なんているわけがない。

浮浪者の類かもしれないが、山で迷ったか怪我でもした登山客が、一時しのぎの仮宿としてここを使ってるとしたら。
そう、やはり確認くらいはしたほうがいいんじゃないか?……と。

どのくらい迷ったか、俺は後者の思考に従った。
扉に手をかける。
くいっと押すと、メキメキッ……と埃をボロボロ落としながら扉が開いた。
中を覗き込むと…………人がいた。
こちらに背中を向けて、部屋の中心に立っている。

……女だ。
着物なのだろうが、まるでボロボロの白い布切れを纏ったような服装で、
頭はボサボサ、腰辺りまで伸びた白髪混じりの黒髪。
破れた着物の隙間から見える手足は、恐ろしいほどやせ細っていた。
その足元には、犬か狸か、動物の死骸が転がっていた。
まだ新しいのか、流れた赤黒い血が床を濡らしている。

「…………ッテー………テー……カー……ョー……」
その女性は何かぼそぼそと呟いていた。
歌だろうか。聞き取れないが、一定のテンポを感じる。