ああ、これは駄目だ。
現実離れした光景を見ながら、俺は妙に冷静にそう思った。
見てはいけないものを見た。
関わってはならないものだ……逃げよう。
俺が一歩後ずさると、女がぐらっと揺れて、顔を左右に振り始めた。

ぶるぶる。
ぶるぶる。
ぶんぶんぶんぶん……
振り幅が段々と大きくなり、長い黒髪が大きく振り回される。
「テーーテーーーシャーーーィィカーーーョーーー」
何を言ってるのかさっぱり分からないが、とにかく異常だった。
俺は逃げた。

全力で来た道を走る。
たぶんこの時、俺は無表情だったと思う。全ての感情を凍らせて、何も考えずに逃げる。
少しでも何か考えれば、悲鳴一つでも上げれば、正気と恐慌の拮抗が崩壊してしまうと思った。
パニックに陥るのを阻止するための本能だったのかもしれない。

藪を掻き分けて、元の登山コースに転がり出る。
そこで呼吸を整えながら来た道を振り返ると、20メートルほど離れた藪の中から、黒い頭が出ているのが見えた。
「—————」
硬直した。
頭しか見えないが、あの白髪混じりの黒髪はさっきのあいつだ。
動かずに立ち止まっているようだが、追ってきてる?

すぐに一目散に逃げた。登山道をひたすら駆け下りていく。
走りながら首だけで後ろを見る。
登山道横の木の陰に白い着物が見えた。さっきよりも近くにいる。