父の思い出① | 肺癌ステージ3A→1B→脳転移でステージ4に

肺癌ステージ3A→1B→脳転移でステージ4に

2019年肺腺癌でステージ3A抗がん剤→左肺上葉切除後ステージ1Bのダウンステージその後経過観察→1年半後脳転移でステージ4になり定位放射線治療→前立腺がんの疑い有り。→脳腫瘍の再発で2022年3月2回目定位放射線治療2022年9月脳腫瘍増大により開頭による脳腫瘍摘出。

私は父にあまり叱られた記憶が少ない。まして、手を揚げられた記憶もない。昭和30年代には多分珍しい父親像だったと思う。

私が大人しい子供だったかもしれないが、この頃の子供は皆んな無茶苦茶だったと思う。平気で嘘もついていたし遊びも今から思うと危なっかしい事ばかりだった。時々近所の方からの告げ口でバレる事もあったが父は激しく叱る様な事はなかったと思う。子供には甘くて優しい人だった。戦争に行った人とは思えない人だった。

そんな父との思い出でをひとつ。





父はコーヒーが好きで仕事場の机の引き出しにコーヒーがいつも入っていて仕事が一段落するとコーヒーを淹れて飲んでいた。コーヒーは豆を挽いてもらった物をいつも買って引き出しに入れていた。(私も近くの商店街にあるコーヒー豆屋さんに買いに行かされました。)

私はコーヒーを淹れている時の匂いも好きだが豆を挽いた時の匂いのほうが好きだ。


あれは私がまだ小学生の低学年くらいの冬の寒い夜だった、父の仕事場のその部屋は照明が点灯していなかった。反射式ストーブがうっすらと暗い部屋の中を照らしていた。その部屋で父がコーヒーを淹れている。私はその反射式ストーブの上でマミービスケットを焼いていた。マミービスケットとは直径5、6cmの丸いビスケットを10枚にしてろう紙に巻いていて十円だったと思う。私はそのマミービスケットを少し焦がして食べるのが好きだった。ビスケットの焼け具合を見ながら父が淹れるコーヒーの匂いとビスケットが焼けるいい匂いがその部屋じゅうに漂っている。その空間には父と私だけである。

ビスケットは父に少しだけお裾分けしてほとんどは私が食べていたが、父はコーヒーを美味しそうに飲んでいる。父はお酒は飲めない人だった。そのコーヒーにも角砂糖を2個くらい入れていた。今思えばかなり甘くして飲んでいたと思う。父は甘党だった。

コーヒーと角砂糖が入っている机の引き出しには時々お菓子も入っていた。

羊羹、きんつば、黒砂糖、甘納豆、饅頭、雷おこし、などが思い出される。

父のコーヒー好きはその後ずっと亡くなるまで好きだった。一時はサイフォンで入れたりもしてコーヒーメーカーになってからは新製品が出る度に買っていた。新製品でもよく使い方が分かるものだと思っていた。父は器用な人で生活に必要な事はほとんど出来る人だった。大工道具もノコギリや金槌も使っていた。棚くらいは簡単に作っていた。

料理も出来る人で母が作る料理よりも美味しかった。コロッケを作ってくれた時はこんなに美味しいものがあるのかと感動した。他にもお正月にはお飾りに付いていた橙(ダイダイと言う酸っぱいだけの柑橘類)を使ってかぶの酢漬けには青魚も入っていてその魚も美味しかった。

豚肉のポークチャップや牛肉のステーキも美味しかった。父はビフテキと呼んでいた。

私は父の若い頃の事はほとんど知らない。戦争で失明した事くらいで戦争前に東京には少し居た様だが何をしていたかも知らない。家族内ではコックをやっていたのではと想像していた。時々東京の話で銀座線や松坂屋の話が出た事もあったが今はもう聞けない。

でも料理の事は詳しかった。

父が亡くなって今年が17回忌だった。今年母の4新盆と一緒にお経をあげてもらった。

私はその場には行けなかったが。


父は亡くなる15年くらい前に天台宗のお寺を探しお墓も建てて永代供養料もお寺に払っていて残された者に迷惑をかけない様に困らない様に自分の始末をして逝きました。

そのお墓は便利な街中で家族皆んなその辺りは遊んだ思い出のある場所でした。小中学校私と兄妹も通学路沿いのお寺でなじみのある場所でした。

電車でも行けるしタクシーでも六角堂と言えば分かってくれる場所です。

墓を建てた時は父は親戚じゅうを呼んで宴席を設けてお祝いをしました。

その縁戚の挨拶には私が代表して挨拶をさされました。

父の思いは後継を私にさせたかったのです。そこで親戚じゅうが揃っている時にその雰囲気を出したかったのだろうと思いましたが。

私は次男です。兄が長男です。

その時兄はどう思ったのでしょうか。

父の思いはよく分かったのですが、今の時代に家を継ぐと言う考え自体がないのに。

その後私はあまりその事にはこだわらず無視していました。

父は亡くなる2年目に脳溢血で半身が不髄になりその後も認知症になり最後は胃がんで亡くなりました。

私は父の最後の最後まで看取る事が出来ました。

最後の方では輸血も5から7リットルしていて胃ろうもしていた様でしたが胃からの出血もあり血が胃ろうに逆流して出て来たていました。また、下血もずっとウンチの様に出ていました。最後の下顎呼吸も分かりましたし少しずつ息が止まったり続いたりで最後の一息までわかりました。

相続では母が存命だったので全て母に相続する手続きを私が預貯金以外は手続きしました。預貯金は母と妹がキチンとして手続きをやっていた様でした。

私は医師に父は今苦痛を感じている様だが苦痛をなくす様にお願いしました。

それからは点滴を止めたり色んな管が取れていきました。

それから少しずつ楽になったのか呼吸も少しずつ大人しくなって弱くなって行きました。