• 十年一日、毎年恒例ー【東京社説】「集団的自衛権」容認10年 戦争する国にせぬ覚悟


 我が国の集団的自衛権(の行使)を認める安保法を、安保法案として国会審議していた頃のマスコミ(の左半分)の騒ぎったら、無かったよなぁ。あろうことか、野党議員までその尻馬に乗っかって、「安保法案を国会で審議・議論して、その問題点を審らかにする」立場にありながら、国会審議を放り出して、国会周囲で行われていた「安保法反対デモに参加する」なんてバカな国会議員まで出る始末(*1)。

 その大騒ぎも、瀬戸内寂徳とか言う「尼さん兼作家」が、私の生涯で、(安保法案国会審議中の)今程”戦争の脅威”を感じたことは無い。って発言・公言で、一つのピークというか境地というか、ある種の「頂点」を迎えたように思う。それほどに安保法による戦争の脅威」が喧伝され、安保法だ成立したら、日本から外国へ亡命すると宣言する輩も、一人や二人じゃぁ無かった、筈だ。然程に安保法が成立したら、戦争になる、乃至戦争に巻き込まれると、喧伝されたモノである。

 「集団的自衛権」ってのは、単純に言えば「同盟を組む権利」であり、「外国の戦争に巻き込まれる」ってリスクも無いとは言えないが、「外国を、我が国の戦争に巻き込む」権利であり、以て「我が国の戦争リスクを低減する」モノでもあるはずだが、「外国の戦争に巻き込まれる」ばかりが強調された。まあ、これは、今も変わらないようだが。
 実に、なんというか、皮相的な議論に終始していたし、今もしているな。NATOが「NATO加盟国一国に対する戦争は、NATO加盟国全てに対する戦争と見なす」同盟であり「他国の戦争に巻き込まれるリスクと引き換えに、他国を自国の戦争に巻き込むメリットを享受している」意味・意義・メリットが、未だに理解できないらしいのだから・・・ある意味「凄い」よなぁ。
 
 更には、瀬戸内寂徳って人は、結構なご高齢で、終戦の年には18才ぐらいの、「物心つく」通り越して「多感なお年頃」だった人。その、大東亜戦争実体験者が、直接体験した大東亜戦時下よりも「安保法案の国会審議」に「戦争の脅威を感じた」と言うのだから、穏やかではない・・・と言うよりは、普通に考えて大嘘吐きの大間抜けだろう。
 更に因みに、安保法が成立し、安保法が執行されて以降の我が国に、瀬戸内寂徳さんはご存命であッ多のだが、その後彼女が感じる「戦争の脅威」がどうなったかは、私(ZERO)は知らない。

 まあ、「知っても無駄」な気はするが。何しろ、一時は間違いなく世界最強であった海軍は壊滅し、我が国の港という港は機雷で封鎖され、大都市は疎か中小都市の大隈で灰燼と帰し、広島と長崎に原爆まで喰らった大東亜戦争当時よりも、「安保法案の審議」に「戦争の脅威を感じてしまう」様な「感性」は、私(ZERO)の常識も理解も想像も絶するものであるから、な。

 そうそう。SEALDs(シールズ)とか言う「若者たち」が、この「安保法反対」で結構注目されたのも、この頃だ。そのSEALDsも、とうに解散して、今は無い。

 それを言うならば、安保法成立後もしばらくの間は、「集団的自衛権は違憲だ(*2)>とか年中行事のように「安保法反対社説」を掲げていたアカ新聞共だが10年目ともなると、とうとう東京新聞ぐらいしか、社説には取り上げていないようだ。

 「10年の年月」によって「違憲なモノが合憲になる」訳も無かろうに。
 諄いようだが、繰り返そうか。安保法成立、執行から、10年だ。この間、我が国に於ける「戦争の脅威は高まった」と言うのには、私(ZERO)も首肯できる点があるのだが、その「戦争の脅威の高まり」は、どう考えても「安保法により、集団的自衛権の行使が容認されたから」では無いぞ。

 大体、集団的自衛権が「国としての基本的な権利である」とは、安保法案審議以前から、我が国政府も認め、主張していたところ。
 
 その「集団的自衛権の行使を、日本国憲法が認めない」ってのが、安保法成立以前の我が国にの公式公的見解だった、訳だが・・・そりゃ、普通に考えたら、「基本的国権とも言うべき集団的自衛権を、我が国に行使させないような日本国憲法は、トンデモナイ悪法であり、直ちに改憲乃至廃止すべきである。」となりそうなモノだが、そこで「日本に集団的自衛権の行使を禁じるからこそ、日本国憲法は素晴らしい!」になっちまうから、日本の憲法学者(の大半?)も、東京新聞も、「気違いだ」ってんだぞ。
 

  • <注記>
  • (*1) 而して、そんな「バカな国会議員」の一人が、先の都知事選候補者・レンホーでは無かったかな。 
  •  
  • (*2) イヤ、「違憲か、合憲か?」より先に「集団的自衛権無しで、我が国の安全安泰、主権や領土領空領海や国民の生命財産を保全・保証出来ること」を、論証すべきだろうに。 


 

  • (1)【東京社説】「集団的自衛権」容認10年 戦争する国にせぬ覚悟

 

「集団的自衛権」容認10年 戦争する国にせぬ覚悟

 

 

https://www.tokyo-np.co.jp/article/337049?rct=editorial

 

2024年7月1日 07時16分

 2014年7月1日、第2次安倍内閣が「集団的自衛権の行使」の容認を閣議決定してから10年=写真は、安倍晋三首相による閣議決定後の記者会見。

 

 この間、他国同士の戦争への参加を可能にした安全保障関連法の成立が強行され、防衛予算の増額も続く。戦後日本の「平和国家の歩み」を踏み外した起点を、決して忘れるわけにはいかない。

 

 集団的自衛権は、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある外国への攻撃を実力で阻止する権利を指す。

 

 政府は、国連憲章で認められた集団的自衛権は有しているが、その行使は「憲法9条のもとで許される実力の行使を超え、許されない」との解釈を堅持してきた。

 

 これは、主に自民党が担ってきた歴代内閣が、国会や政府内での長年の議論を通じて確立し、踏襲してきた憲法解釈である。

 

 この解釈を一内閣の独断で根底から覆したのが安倍内閣だ。1959年の最高裁による砂川判決を根拠に「集団的自衛権の合憲性は砂川判決で担保されている」として憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使容認に踏み切った。

 

◆専守防衛と法秩序壊す

 

 この解釈変更の問題点を主に二つの観点から批判したい。第一は専守防衛という戦後日本の防衛政策を根幹から変えたことだ。

 

 国内外に多大な犠牲を強いた戦争への反省から、戦後日本は憲法9条で戦争放棄と戦力不保持を誓った。その後、日米安全保障条約で米軍の日本駐留を認め、自衛隊を保有するに至ったが、他国に軍事的脅威を与えない「平和国家の道」を変わらず歩んできた。

 

 攻撃を受けたときに初めて防衛力を用いる専守防衛、他国領域を直接攻撃する敵基地攻撃能力の不保持、国際紛争を助長しないため武器を輸出しない武器禁輸原則、防衛費をおおむね国内総生産(GDP)比1%程度に抑える節度ある防衛力整備などである。

 

 しかし、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定と、行使を法的に可能にする安保法成立が強行された後、戦後日本の防衛政策は根幹から変質していく。

 

 敵基地攻撃能力の保有が容認され、他国領域を直接攻撃できる長距離巡航ミサイルの整備が進む。防衛費も関連予算を含めてGDP比2%に倍増させる方針へと大きくかじを切り、殺傷能力を持つ戦闘機の輸出も解禁された。

 

 集団的自衛権の行使容認が「アリの一穴」となり、9条の平和主義という堤防を決壊させた形だ。

 

 解釈変更がもたらしたもう一つの問題点が憲法秩序の破壊だ。

 

 国権の最高機関であり、唯一の立法府である国会が定め、その後定着した憲法の解釈を、時の政権が都合よく変更できるなら、国民が憲法を通じて権力を律する立憲主義や法秩序は崩壊する。

 

 そもそも、安倍内閣が行使容認の根拠にした砂川判決は駐留米軍に関する判例である。固有の「自衛権」を持つと明示しているが、個別的自衛権を指すことは明白であり、集団的自衛権を巡って争われたものではない。この判決から集団的自衛権の行使容認を導き出すのは牽強(けんきょう)付会が過ぎる。

 

 この閣議決定後、政権は法解釈を恣意(しい)的に変更し続けた。

 

 例えば、東京高検検事長だった黒川弘務氏の定年延長。

 

 検察庁法は検事総長以外の定年を63歳と定めていたが、安倍内閣は法解釈の変更で定年延長を決めた。政権中枢に近いとされた黒川氏を検事総長に就けるため、と指摘された。

 

 後継の菅義偉内閣は政権に批判的な学者を排除するため、法解釈を事実上変更して、日本学術会議が推薦した新会員候補6人の任命を拒否した。

 岸田文雄内閣も政府の憲法解釈を事実上変更して、敵基地攻撃能力の保有に踏み切った。

 

 政権の都合で憲法や法律の解釈を変更する頻度が増えたのも、集団的自衛権を巡る閣議決定が法秩序を破壊し、解釈変更のハードルを下げたからにほかならない。

 

◆平和主義により磨きを

 

 本紙は10年前の7月1日、通常は紙面の中程にある社説を1面に掲載し、行使容認の閣議決定に反対する旨を主張した。本紙の毅然(きぜん)とした姿勢を示すためで、今もこの覚悟に変わりはない。

 

 日本を再び「戦争する国」にしないためには、戦後日本の平和主義と憲法秩序を取り戻さなければなるまい。憲法で誓った平和主義を国家戦略に位置付け、より磨きをかける。戦火がやまない世界を生き抜く唯一の道だと信じる。

 

  • (2)「平和主義ならば、平和を保てる。」訳では無い。

 「平和憲法」も「平和主義」も、自国の行動を掣肘するのみであるから、精々の所「自国から開戦し、戦争を始めることを阻止阻害する」のみである。「異国から自国へ戦争を仕掛けること」を、妨害するような効果が仮にあるとしても(*1)、期待希望は出来ても、保証はない。

 更に言えば、戦争できない国」は、「攻撃されれば自動的に負ける国」であり、「戦争と侵略を誘っている国」である。従って、国は、「戦争できる国」である事が、義務であり、責務である。

 言い替えようか。国は、「戦争できる国」で無ければ、国ではない。国には、「戦争できる」ようにしておく義務・責務が、ある。

 「戦争できる国」であるからこそ、「戦争を抑止できる」。

 「戦争できない国」は、戦争を誘引し、惹起しかねない、危険な状態だ。


 まあ、「日本国に集団的自衛権の行使を禁じるから、日本国憲法は素晴らしい!!」とか考えて居る気違いには、何を言っても無駄な気はするがな。
 

  • <注記>
  • (*1) それを「ある」と断定断言する輩の、気が知れないのだがな。