イランの地下九十メートルにある核爆弾製造工場を、
「如何にして爆撃して破壊するか。
それを、何時、決行するか。」
という人類にとって深刻な課題に取り組んでいる最中の
アメリカトランプ政権に対し、
総理の石破茂は、
自動車を今まで通り購入してくれと頼むために、
番頭か丁稚か区別がつかない男を
七回か八回にわたって訪米させていた。
それは、トランプ政権に対し、
日本は、核の問題には関係ないと宣言しているが如くであった。
そもそも石破は、戦車や軍艦のプは眺めるは眺めるが、
軍事に全く興味を示さない男である。
防衛大臣を何度か務めたのは、
「自衛隊は軍隊ではない」
ということを、あの目つきで、
ねちねち説明することができる特技があるからに過ぎない。
しかし、我が日本にとって、
国家の命運を決する軍事は死活的に重要である。
よって、痛恨の昭和史から、次の二例を記したい。
まず、我が国の運命に重大な影響を与えた
「決定的で痛恨の情報欠落」は、
昭和十四年(一九三六年)五月十一日から
同年九月十六日における、
外蒙古と内蒙古(満州国)の国境付近で行われた日本軍とソ連軍との衝突即ちノモンハン事件において生まれた。
ソ連のスターリンにとってこの戦闘は、
コミンテルンの世界革命戦略の第一歩と位置づけられた
外蒙古全体を、失うか否かの問題だった。
従って、スターリンは、後に独ソ戦の英雄となる
ゲオロギー・ジューコフ将軍を司令官とする
二十三万の自慢のソ連機械化部隊を、
遙か東のノモンハンに投入してきた。
そして、これを迎撃した日本軍の主力は、
熊本で新設された
小松原道太郎中将率いる第二十三師団二万人であった。
ほとんど生還しなかった
この二万人の将兵を我々は忘れてはならない。
ソ連崩壊後の現在、明らかになっているソ連軍の損害は、
破壊された戦車が八百両、
撃墜された航空機が一千六百七十三機で、
スターリン自慢の機械化部隊は壊滅していたのだ。
我が二十三師団将兵の勇戦奮闘こそまさに驚異的である。
しかし、
東京の軍中央と日本政府は、これを知らなかった。
戦車一両の乗員は四名であり、
戦闘機はパイロット一名である。
彼らは、ほぼ戦死したとして、
日本軍によって破壊された
八百両の戦車と一千六百七十三機の戦闘機の
一万人近い整備兵は歩兵になるしかない。
そこで日本軍の記録には、
広大なノモンハンの草原で、数百名のソ連兵を、
数名の日本軍兵士が
銃剣で遙か彼方に追い詰めていったとある。
これソ連機械化部隊崩壊の姿だ。
従って、第二次大戦後に、西側の記者から、
「この度の戦争で一番辛かった戦闘は何処だったか?」
と質問された、
独ソ戦の英雄として元帥に昇進していたジューコフ将軍は、
即座に
「ノモンハンでの日本軍との戦闘である」と答えている。
また、スターリンには、
日露戦争の奉天会戦で、三十万のロシア軍を撃破した日本軍の強さに驚愕した二十七歳の時の思いがまざまざと甦り、
日本に対する恐怖心を抑えるとこができなかった。
そして、スターリンは、
ユーラシアの東西両面で戦うことの恐ろしさから逃れるために、同年八月二十三日、ドイツとの間で
モロトフ・リッペントロップ協定
即ち独ソ不可侵条約を締結した。
この独ソ不可侵条約締結に驚愕した我が国の平沼内閣は、
「欧州の情勢は複雑怪奇」との声明を発して総辞職する。
しかし、スターリンをしてドイツとの「不可侵条約締結」に向かわせたのは、
「欧州の情勢」ではなく
ノモンハンにおける生還を期すことなく戦った
日本軍兵士の強さであった。
また、この独ソ不可侵条約は、
独ソのポーランド分割合意でもある。
従って、独ソ不可侵条約締結の八日後の九月一日、
ドイツは西からポーランドに侵攻して第二次世界大戦を勃発させた。
これを見たソ連は、急いで九月十六日に、
日本とノモンハンの草原で停戦協定を結び、
露骨にもその翌日の十七日に、
遙か西の欧州で
文字通り後顧の憂いなくポーランドに東から侵攻して、
ドイツとポーランドを東西で分け合った。
その後の推移を簡単に言えば、
翌昭和十五年九月、
我が国はドイツ・イタリアと三国同盟を締結するとともに、
近衛内閣は、政権内部に入った
スターリンのスパイであるゾルゲと尾崎秀実の工作に従って、
南アジアへの南進を決定するとともに、
ドイツの東進(ロシア侵攻)を見越したスターリンと、
日ソ中立条約を締結する(昭和十六年四月十三日)。
そして、
スターリンの想定通り二ヶ月後の六月二十二日、
ドイツのヒトラーは、
バルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開始する。
そして、我が国は、
ドイツ軍の進軍スピードに目を見張るが如く独ソ戦を眺めた。
しかし、この状況を観て、
イギリスの首相チャーチルは、後に言った。
「仮に、日本が北進してソ連に攻め込んでいたら、
日本が第二次世界大戦で勝者となる、
唯一にして最大の好機だった。」と。
しかし、我が国は日ソ中立条約を守って対ソ参戦はしなかった。
これに対して、ソ連のスターリンは、
日ソ中立条約を破って対日参戦をして勝者の側に立ち、
今も我が国の樺太を始とする広大な北方領土を占領している。
次ぎに、これとは反対に、
現場の情報将校が「世界的な情報」を獲得して
それを本国の日本に打電しているのに、
我が国政府即ち終戦時の鈴木貫太郎内閣が、
それを知らなかったという「痛恨の謎」がある。
一九四一年(昭和十六年)一月、
ストックホルム駐在武官陸軍少将小野寺信(まこと)は、
本名ミハール・リビコンスキーと知り合い深い友情で結ばれた。
彼は、ナチス親衛隊指導者のハインリッヒ・ヒムラーが
「世界で最も危険な密偵」と言ったポーランド人であった。
小野寺は、リビコンスキーを雇い
日本国パスポートを与えて彼を守った。
しかし、ナチスに屈服したスエーデン政府が、
リビコンスキーに国外退去を命じたので
ロンドンにある「ポーランド亡命政府」に移らねばならなくなった時、彼は小野寺少将に、
「ロンドンからも日本の為になる情報を送る」
と約束した。
そして、昭和二十年二月半ばの夕食の前、
ストックフォルムの小野寺の自宅に、
ポーランドのロンドン亡命政府からの手紙が届けられた。
その手紙こそ、同月四日から十一日の間、
クリミア半島のヤルタに集まった米英ソ首脳、
ルーズベルト、チャーチル・スターリンが合意した
「ヤルタ密約」を
ポーランド亡命政府が、日本政府に伝達したものであった。
その内容は、
「ソ連はドイツ降伏後、三ヶ月以内に、
日ソ中立条約を破って日本に参戦すること。
その参戦の代償として、
日本領の南樺太と全千島列島を
ソ連に割譲することを米英ソ首脳が密約した」
というものであった。
小野寺は驚愕して、
直ちにその内容を、東京の陸軍参謀本部に打電した。
従って、時の小磯内閣は、
この「ヤルタ密約」を知った。
しかし、小磯内閣は同年四月五日に総辞職し、
この小磯内閣から次の終戦を目的として組閣された
鈴木貫太郎内閣に、
この「ヤルタ密約」が
伝達された形跡はない!
以上の通り、
ノモンハン事件とヤルタ密約情報の喪失をきっかけにして
戦前の情報戦おける我が国の敗北の軌跡を眺めたのは、
現在のアメリカのトランプ大統領の出現以来、
露呈している我が国の情報戦における無能を確認し、
痛烈な改革に向かう為である。
以上、「月刊日本」誌に出稿した原稿
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