英霊に教えられた日本人の不朽の確信 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

英霊に教えられた日本人の不朽の確信


紀の国が生んだ途方もない民俗学の野人

南方熊楠(1867~1941年)を

エリートの柳田国男は「日本人の可能性の極限」と評した。

そうであれば、

この南方熊楠出生より三十九年前に

薩摩で生まれた西郷隆盛(1828~1877年)も、

「日本人の可能性の極限」を体現した民族の至宝である。


明治十年九月二十四日の払暁、

西郷をはじめとする薩摩軍の将士は、

郷里城山の洞窟前から、

坂の下の岩崎谷に向かって行軍を開始した。

右手の崖の上から

官軍の放つ弾丸が驟雨のように西郷等に飛来した。

そして、行進の列が島津応吉邸の前を通過しようとしたとき、

弾丸が西郷の股と腹に当たった。

その瞬間、西郷が別府晋介を顧みて言った。

「晋どん、晋どん、もうこんあたりでよか」

起つことができなくなった西郷は、

その場に跪坐して、襟元をつくろい、

遙か東方を拝し、双手を合わせて、

東京の天子に、最後の衷情を尽くした。

負傷して輿に乗っていた別府晋介は、西郷の言葉を聞くや、

「そうでごあすか」

と声をだして輿を降り、

次の瞬間、

「御免なったもんせ!」

と叫ぶや、一刀の下に西郷の首を切り落とした。

時に、明治十年九月二十四日午前七時であった。


その後、別府は、

不自由な足を引きずって岩崎口の堡塁に達し、

「先生は戦死されもした!

先生と一緒に死(けし)んもんは、

皆で死(けし)んもそ!」

と叫んで、乱戦のうちに討ち死にした。

午前九時、西郷隆盛以下百五十七名が戦死して、

戦闘が総て終結した。

その後、

西郷の遺体は第四旅団の兵が発見し、

首級は遊撃隊の兵卒が発見した。

政府軍の山県有朋参軍は、

砂だらけの西郷の首を清水で清めさせ、

両手を差し伸べて受け取り、各旅団長を顧みて言った。

「何という立派な死様だ。

日頃の温和な容貌と少しも変わっていない。

これが二百余日の間、

一日として吾輩の心を安んぜしめなかった人の顔だろうか」

そして、江藤淳は、次の通り書いている。


このとき実は山県は、

自裁せず戦死した

西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである。

陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、

国粋主義でも、排外思想でもない、

それらすべてを超えながら、

日本人の心情を深く揺り動かして止まない

「西郷南洲」という思想。

マルクス主義もアナーキズムも、

そのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、

日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を、

一度も持ったことがなかった。


以上、江藤淳著「南洲残影」から引用した。

何故、南方熊楠と西郷隆盛なのか?

この日本民族の至宝である両者のことが、

令和六年八月十五日午後三時、

靖國神社の参集殿で昇殿参拝の為に待機していたとき、

しきりに思われてならなかったからだ。

その理由は、理屈ではない!

西郷隆盛と南方熊楠は、

嘉永六年(一八五三年)以降、

國の為に殉難して靖國神社に祀られる

二百四十六万六千余柱の英霊と、

同じ仲間、兄弟だと腹の底から感じたからだ!

西郷隆盛と南方熊楠は、

それぞれ全く違う分野で生きて業績を遺しているが、

その業績の中で死んだのではなく、

英霊と同じ

「尊皇の思い」の中で生きて死んだ日本人である。


西郷隆盛は

沖永良部の牢に幽閉されて生死の間を彷徨った時(文久二年)、

次の詩を詠んだ。

生死何ソ疑ワン、天ノ附與。

願ハクハ、魂魄ヲ留メテ皇城ヲ護ラン!

明治天皇は、

この西郷を愛された。

よって、城山における西郷の心境、

まさに

「士ハ己ヲ知ル者ノタメニ死ス」

であった。


昭和天皇は、

生物学者として皇太子時代から南方熊楠をご存じであった。

そして、昭和四年五月末、

横須賀から船で伊豆大島に行幸される。

しかし、その伊豆大島に待機していたのは、

世界最大の戦艦長門であった。

関東大震災発災の時、戦艦長門は旅順沖で演習していたが、

大震災発災の報を受けて全速力で東京湾に向かう。

その時、旅順沖で長門を監視していたイギリス海軍の駆逐艦が

長門を追尾しようとするが、

長門の想像を超えた高速度に追尾不能であった。

その戦艦長門が、

昭和天皇のお召艦となって伊豆大島で陛下を待っていたのだ。

そして、陛下が乗艦された長門は、直ちに西に進路を取り、

翌朝には紀州の田辺湾に入った。

陛下は、

長門から、カッターに乗られて、

直接、湾内に浮かぶ神島に上陸された。

その神島の森のなかに、

南方熊楠が、神妙に佇立して待っていたのだ。

まさに、

「伊豆大島より南紀に行幸される目的は、神島と熊楠にあり!」

であった。

後に、南方熊楠は、陛下の神島行幸を思い、歌う。

 一枝も 心して吹け 沖つ風 

 わがすめろぎの めでましし森ぞ

昭和三十七年、白浜に行幸されたときの昭和天皇の御製

御宿から北に広がる田辺湾を眺められて、

   雨にけふる 神島を見て 

  紀伊の国の生みし 南方熊楠を思ふ


以上の通り、令和六年八月十五日、

靖國神社に祀られる英霊を思い、

西郷隆盛と南方熊楠を思った。

そのうえで、日本人とは、生死を超えて、

天皇と共にあることを感じることができる民族であることを実感した。

萬葉集の編集者である大伴家持は、

萬葉集のなかに次の自分の長歌を載せ、

高らかに、天皇の下に死ぬことが、

清きその名を、今の世に伝えることだと歌った。

日本人は、

太古から「この実感」を以て現在に至る民族である。

この太古からの実感を、現在に継承している民族は、

世界で我が日本民族だけである。


大伴の遠き神祖(かみおや)の 

その名をば 大来目主と負い持ちて

仕えし官(つかさ)

海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍

大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじ

と言立て 

大夫(ますらを)の 清きその名を 

古よ 今の現(うつつ)に 

流さへる 祖(おや)の子等そ 

大伴と 佐伯の氏は・・・


そして、「この実感」は、「八紘為宇」

つまり、

「皆、同じ屋根の下に生きる一つの家族」

という神武天皇創業之の志として、

太古から宣言された心情に根ざすものだ。

これが、太古より

「日本人の心情のなかに生きている思想」

である。

民主主義もマルクス主義も、

アナーキズムもポストモダニズムも、社会契約説も、

そんなものは、

この「太古の心情」を失った近世西洋における

政治闘争・プロパガンダの道具にしか過ぎない。

従って、彼らは、

有色人種を奴隷とする制度と植民地支配を維持しながら

「自由・平等・博愛」を唱えることができた。

そのこと、パリのオリンピック開会式における演出が

期せずして暴露していた。

フランス人どもは、

「同じ屋根の下に生きる一つの家族」では

到底できないことをオリンピック開会式でした。

フランス革命においてギロチンで首を切断した

国王ルイ16世の妃マリー・アントワネットの生首に

何か叫ばしていた。

その心情、グロテスク極まりない。


こういう西洋文明の終焉のあとに、

人類の指針となるべき「心」は、

思想でもイズムでもない。

我が国が、

太古から維持してきて、

靖國の英霊がその為に戦った

「八紘為宇」の理念

「地球は一つの屋根の下の一つの家族」

という理念である。


西村眞悟時事通信FBより

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