能登半島地震と祈り | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

新年早々の令和六年一月一日、

北東に細長い地形の能登半島を最大震度7の地震が襲った。


学生時代の昭和四十四年(一九六九年)一月

雪の能登半島を車のタイヤにチェーンを巻いて

山野に車を停めて野宿をしながら一周した。

そして、

四年前に亡くなった畏友、

画家の中尾(萩下)新也が、

命の最後に眺めていたのが能登半島の西方に広がる海だった

と奥さんに聞いたので、

かつて中尾新也夫婦とともに

上高地から涸沢に登ったメンバーで

新也の眺めていた海を見ながら能登半島を一周した。


このように、能登半島の地形を知っていたので

震度7の地震と報道された時から、

連絡・交通が途絶した集落が多くあると思った。

案の上、発災から七十二時間が経過した今、

安否不明者百七十九人と朝刊が伝えている。

そして、

「生き埋め40~50件 輪島」

と伝える見出し(産経新聞)を見て、

祈る思い切なるものがある。


平野がなく山脈の先端が海に突き出ているような

能登半島の各所で

陸路が分断され、集落との連絡が途絶したとき、

その困難を克服して

速やかに孤立集落に接近する能力を有するのは

陸海空の自衛隊である。

従って、

特に、道路復旧前に救出部隊が空から接近すること。

即ち、CH47(チヌーク・双発ヘリ)と

オスプレイの出動が必要である。


東京では、首相以下、防災服を着て会議をしているが、

問題は、服装ではなく、

人命救出の為に、この初期の決定を

何時したのか?

遂に、しなかったのか!

である。


令和六年の元旦を、我が国と我ら国民は、

能登半島地震、

即ち、天変地異で迎えた。

よって、元旦に我が国に突きつけられた国家的課題は、

「能登半島の国民の緊急救出」

となった。

防災服だけを着ているような岸田内閣、

大丈夫なのか。


令和六年元旦、

この地震に先立つ寅の刻(未だ真っ暗な午前四時ころ)、

天皇陛下は、

皇居の宮中神嘉殿の南庭で「四方拝」をされた。

この「四方拝」は、

天皇しかなし得ない秘密の呪文を唱える秘儀であり、

侍従長も見ることはできない。

その呪文とは、

我ら一般の国民が行う「魔除け」の祈りとは、

まさに逆の、

我が国と国民にふりかかる賊冠、毒魔、毒気、毀厄などは

総て天皇である我が引き受けるので、

我を通れ、

我がそれを浄化して民を守る

という恐ろしい呪文

であると教えられている。


我が国の天皇は、

正月元旦、未明、

国家と国民のために、

国家と国民にふりかかる厄(わざわい)は

民ではなく総て我を通れと祈られる尊い御存在なのだ。

従って、

天皇陛下は、

能登半島の国民の救出を祈り続けられていて、

宮中での国民に対する年賀のご挨拶を控えられたのだ。


なお、

嘉永六年(一八五三年)七月八日の浦賀へのペリー来航と

八日後の七月十八日のプチャーチンの長崎来航から

万延元年(一八六〇年)三月二十四日の桜田門外の変

までの七年間の幕末動乱期に

大きな地震は十七回起こっている。

現在、まさに、

西のウクライナと中東

そして

東の台湾海峡と東シナ海を観ると、

ユーラシアは動乱期に入ったと思われる。

従って、

阪神淡路大震災と東日本大震災そしてこの能登半島地震は、

幕末の地震と同じ警告を、

我ら日本国民に告げている。

即ち、

前者が「徳川幕藩体制からの脱却」

を我が国に促したならば

後者は「戦後体制からの脱却」

を促しているのである!


西村眞悟FBより

日本日本日本


囲碁やったことある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう