読書の秋 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

読書の秋の計画ができた


新刊書原稿の校正第二稿を展転社の相澤行一君に送ってから

時間ができたので、

台風七号に関するニュースをよく視ていた。

そして、台風七号が、硫黄島・小笠原海域から

真北の関東・東京方向に進むと報道されたとき、

このような軌跡を辿る台風七号は

昭和二十年三月十日に

サイパン・テニアンを離陸したB29爆撃機群が

帝都を空襲する時と同じコースを辿るのだと思った。

この時から、

この台風は「異様だ」と思うようになった。

すると、この七号は、

我が予測を、見抜いてそれを欺くが如く、

前進方向を北北西に転じ、

十五日午前五時、東京より六百キロ西の

本州最南端の串本に上陸して、

紀伊山脈に沿って北上してきた。

これは、B29爆撃機群が

大阪(同年三月十三日)・神戸(三月十七日)を

爆撃したコースである。

大阪・和歌山県境に近い陸軍幼年学校生徒だった人が、

B29爆撃機群は、

突然、南の高野山の山脈の上に姿を現したと言っていた。

以上が、先日、台風七号は、尋常ではなく、

史上、激変期の始まりを告げる天変地異の一つだ、

と書いた所以だ。


そして、通常の台風一過の清涼感とは逆の、

生暖かい空気におおわれた昨夜、

就寝前に、何気なく

藤原弘達著「わが父 ヒロヒト天皇」という本を手に取り、

その「あとがき」を眺めると、

昭和天皇を「父」として生きてきた藤原弘達が、

昭和の終わりが迫る年末年始に書斎に籠もって

小林秀雄の「畢生の大著」とされる「本居宣長」を読みふけって

「父なるヒロヒト天皇の死」

を待ち、むかえたのである、

と書いていた。

これを読んで、私は思った。

私のこの度の原稿も、実は、本居宣長のお陰だと。

本居さんが、「古事記研究」に一生を捧げてくれたお陰で

明治の井上毅は「大日本帝国憲法」を起案できたのであり、

明治の日本は、ナポレオン法典を丸写しにした

「猿マネ国家」の汚名を受けずに済んだのだ。

そして、私も、

「邦家萬古の伝統」に関する原稿を書くことができた。


実は、私も小林秀雄の「本居宣長」を持っている。

しかし、読んでいなかった。

学生時代から、酒と山と刀と機関銃が好きな私は、

死後の自分の墓の、

形と寸法まで自分で決めて、

その図まできちんと書いて死んで行く

本居宣長のような生真面目な人に関する本は

難解で肩がこると敬遠していたのだ。

しかし、日本を理解する為には、

本居宣長を知らなければならない。

よって、藤原弘達のように「本居宣長」を読もうと思う。

同時に、

円仁(慈覚大師)の書いた

西暦八三八年から八四七年にわたる支那滞在の記録

「入唐求法巡礼記」の研究者であり

アメリカの駐日大使であった

エドウィン・ライシャワー著「円仁 唐代中国への旅」も読もうと思う。

この記録は、

中国の生活に関して外国人が書いた最初の記録であり、

マルコ・ポーロの旅行記よりも遙かに高い資料的価値をもつものであるからだ。

そして、現在の支那を理解するに資するからだ。

以上が、

異様な台風七号がもたらした私の「秋の読書」計画だ。


西村眞悟FBより

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