「戦争の世紀」日本人の姿 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

七夕の願い事2023

 

 例年、八月に入ると

我が国のマスコミは、GHQの

WGIP(War Guilt Information Program)

の再生のような報道を開始して、

十五日以降はピタリとやめる。

よって、今のうちに、

「戦争の世紀」であった二十世紀に戦った日本人同胞の

世界史に刻まれた姿を記しておく。

次の一文は「月間日本」誌への投稿原稿に加筆したもの。


スカンジナビア半島の付け根に位置するフィンランドは、

一九一七年のボリシェビキ革命によるロシア帝国崩壊によって

独立するまで、

ロシア帝國に支配されていた。

その独立期に軍人として生きたフィンランド人の

グスタフ・マンネルハイム(一八六七年~一九五一年)は、

二〇〇四年十二月に行われた、フィンランド国民による

「偉大なフィンランド人コンテスト」

において、第一位に選ばれている。


彼は、一九〇五年二月二十五日に始まり三月十日に終結した

日露戦争における世界戦史上最大の陸上戦闘となった

奉天大会戦において、

ロシア軍騎兵中佐として、

日本軍左翼の乃木希典軍司令官率いる第三軍と戦った。

この奉天大会戦の参加兵力は、

日本軍は二四万九千八〇〇名、ロシア軍は三〇万九千六〇〇名。

砲数は日本軍九九〇門、ロシア軍一千二〇〇門。

また、日露両軍が対峙する戦線は、

奉天城を中心にして東西百キロにおよんだ。

そして、この戦闘の特色は、

少数の日本軍が、優勢なロシア軍を、左翼から包囲せんとしたことである。

即ち、乃木第三軍は日本軍左翼から突出してロシア軍を包囲しようとして、

不眠不休で戦闘を続けて昼夜前進を止めず、

遂にロシア軍の左翼に進出した。

すさまじい昼夜連続して続く日本軍の攻撃に直面した

ロシア軍は、

日本軍には膨大な予備兵力があると判断したが、

日本軍には予備兵力など無く、

一人一人の兵士が眠らず食わず攻撃を続けていたのだ。


また、この乃木第三軍は、

ロシア軍兵士たちが難攻不落と確信していた旅順要塞を、

同年一月一日に陥落させた軍として、

奉天のロシア軍兵士たち、

さらにその総司令官のクロパトキンも、

乃木は悪魔で第三軍には悪霊がついていると恐れていた。

そのロシア兵の心理を知った日本軍兵士は、

黄塵が舞う昼なお暗い不気味な満州の荒野において、

ロシア語で「我は旅順を陥落させた第三軍兵士なり!」と叫んで

ロシア軍への突撃を繰り返した。

それ故、総司令官クロパトキンは、

悪魔の乃木第三軍の自軍右翼への突出の報告を受けて、

悪霊に包囲されるのを恐れて震え上がり、

全軍に奉天からの退却を命じたのだ。


よって、第三軍からは、奉天城からロシア兵を満載した列車が、

三十分おきに北上していくのが見えた。

しかし、既に、第三軍には、

火砲・弾薬・機動力など総てが欠乏していて、

まことに無念ながら、

ロシア軍の退路を断つことができなかった。

総司令部の満州軍作戦主任参謀が乃木第三軍に進撃を命じて

「長蛇を逸するべからず!」

と督戦すると、

第三軍参謀は、砲弾の欠乏と疲弊した将兵の惨状を説明してから、憤然として、

「長蛇が逸するを待ちつつあり!」と叫んだ。


その時、

日本軍に退路を断たれることなく退却できたロシア軍の中にいた

グスタフ・マンネルハイム中佐は、

死に物狂いの日本軍の戦闘を目の当たりに観て、

小国でも団結すれば大国を打ち破ることができると実感した。

この時、仮に乃木第三軍に、

ロシア軍の退路を断つ砲弾と機動力があれば、

マンネルハイムは、遂に祖国フィンランドに帰らず、

現在、

フィンランドという国家が存在しているか否か不明である。


日露戦争後、マンネルハイムはロシア軍の中将にまで昇進するが、第一次世界大戦中の

ロシア革命勃発によるロシア帝国崩壊のなかで

独立したフィンランドを守るために、

独立フィンランド軍の大將さらに元帥として、

次の内戦と東西両面における三度のソ連とドイツとの戦争を戦い、フィンランドを守り抜く。

それは、

先ずボルシェビキとの「内戦」(一九一八年一月二七日~五月十五日)、

次にソ連との「冬戦争」(一九三九年十一月~一九四〇年三月)、

さらにソ連との「継続戦争」(一九四一年六月~一九四四年九月)、

そしてナチス・ドイツとのラップランド戦争である。


以上、「偉大なフィンランド人」であるグスタフ・マンネルハイム将軍と二十世紀のフィンランドの戦争を述べてきた所以は、

これから、

ユーラシアの西の情勢にユーラシアの東の我が国が深く関与している歴史を示さんが為である。

我が国においては、

現在のロシアによるウクライナ侵攻も含めて、

ユーラシアの遙か西の情勢は、

ユーラシアの東端の我が国とは縁が薄いと思いがちである。

しかし、

十六世紀後半に三百年間におよぶタタール(モンゴル)の支配から脱して

モスクワを拠点に独立したロシアにとって、

東方とは「タタールという脅威が迫ってくる方向」

であるとともに

「一貫して征服すべき方向」であった。

一八六〇年の清国との北京条約によって沿海州を獲得して太平洋に出たロシアは、

ユーラシアを西のバルト海から東の太平洋まで打通する帝國となり、太平洋に乗り出す港を建設して「ウラジオストック」と命名した。その意味は「東を征服せよ」だ。

そこで、ロシア軍将校として東方の満州で日本軍と戦い、

以後、三度、フィンランド人としてロシアと戦った

グスタフ・マンネルハイムと、

彼の敵であるソ連のスターリンは、

日本を如何に観ていたのかを述べたい。


まず、ロシア革命によって、

ロシアから独立して間もないフィンランド国内においても

ボルシェビキとの内戦が始まり、

マンネルハイムは、反ボルシェビキ派を率いて戦った。

その時、彼は、ボルシェビキの本質を、

「暴力と無秩序」

であると見抜き、

東方の日本が

ボルシェビキを駆逐しつつユーラシアを西進してくれれば、

フィンランドは、

それに呼応して南下してペテルスブルクを攻略し、

日本・フィンランド両国で

ロシア革命を挫折させるという構想を具体化しようとした。

仮に、この時、このマンネルハイムの構想が具体化されれば、

二十世紀のボルシェビキによる数千万人殺戮の悲劇は生まれなかったであろう。

また、二十三年後の一九四一年六月二十二日、

独ソ戦が勃発した時、

イギリスのチャーチルは、

マンネルハイムと同じ事を言った。

「仮に日本が北進してソ連に攻め込んでいたら、

日本が第二次世界大戦の勝者となる

唯一にして最大の好機だった」と。

このソ連を攻めるという「北進論」は、

帝国陸軍内に根強く存在したが、

近衛内閣に入り込んだソ連のスパイである尾崎秀実とゾルゲの工作によって

近衛内閣は、

愚かにも「南進」を決定してしまう(一九四一年七月二日)。


次に、フィンランドとソ連の冬戦争と継続戦争は、

共にソ連のスターリンが、

東の日本とのノモンハン停戦協定(一九三九年九月十五日)

さらに日ソ中立条約(一九四一年四月十三日)

を待ってフィンランドに侵攻した戦争である。

スターリンは東で日本と戦いながら西で戦争することを回避した。

そもそも独ソ不可侵条約(一九三九年八月二十三日)は、

日本では「欧州の情勢は複雑怪奇」という言葉で明らかなように、

「欧州の情勢」のみが生み出したもののように思われているが、

その時、満蒙国境のノモンハンで日本軍と戦っていたスターリンの

ユーラシアの東西両面で

ドイツ・日本両国と同時に戦う恐怖から逃れるための策略である。

スターリンは、一貫して東の日本軍を恐れていたのだ。


我が国の売文家によって

草原の日ソ戦争であるノモンハン事件(一九三九年五月十一日~九月十五日)の実相は歪められているが、

この日ソ戦は単なる国境紛争ではなく、

スターリンにとって外蒙古全体を失うか否かの問題であった。

それ故、スターリンは後の独ソ戦の英雄となる

ゲオロギー・ジューコフ将軍を司令官とする

二十三万人の自慢の機械化部隊を

ノモンハンの草原に送り込んできた。

これを迎撃する日本軍は新設の第二三師団二万人のみであった。

しかし、日ソ両軍激突の結果、

破壊されたソ連軍戦車は八百台、

日本軍戦車は二十九台、

撃墜されたソ連軍戦闘機は一千六百七十三機、

日本軍戦闘機は百七十九機で、

スターリン自慢のソ連機械化部隊はノモンハンで壊滅したのだ。

戦後、元帥となったジューコフは、

西側の記者から、

「どの戦闘が一番苦しかったか?」と質問され、

「日本軍とのノモンハンでの戦いだ」と答えた。


また、スターリンの日本軍に対する恐怖心は最後まで消えず、

一九四五年二月のヤルタ密約で

ソ連はドイツ降伏(五月八日)から三箇月以内に対日戦に入ると約束していたが、

スターリンは、約束の期限一杯の八月八日まで対日戦を開始しなかった。

ノモンハンで、

二十三万のソ連軍機械化部隊を壊滅させた

第二三師団の玉砕した日本軍将兵が、

スターリンから北海道を守っていたのだ。


西村眞悟FBより

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