嗚呼、誰が、邦家萬古の伝統を、思わざる。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

嗚呼、誰か、邦家萬古の伝統を、想わざる


橿原神宮にて紀元節をお祝いする前日、

改めて神武天皇の「橿原建都―八紘為宇の詔」を拝読すれば、

これ、

「世界政治思想史上の奇跡」ではないか、

との思い、いや、感動が腹の底から湧き上がる。


「奇跡」ではないかという根拠は、

第一に「この詔」は、ユーラシア東端から海をさらに東に渡った

「日本」でしか出現しないからであり、

第二に、欧州文明圏においては

「民が主である」という政治思想の出現を

「近代のコペルニクス的転換」としているのに対し、

我が国に於いては、近代どころか

太古の神武天皇御創業の時、

即ち我が国の誕生の時に宣言されているからである。


「橿原建都―八紘為宇の詔」では、

「民」または「元」と書く今の「国民」を

「おほみたから」と呼んでいる。

洋の東西を問わず、世界の君主が、

民つまり国民を「おほみたから」と呼ぶ国が、

かつて我が日本以外に出現したであろうか。

その上で、詔は、

「義(ことわり)必ず時に髄(したが)ふ。苟(いやし)くも民(おほみたから)に利有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」

と言う。

これは、建国の目的また理想は、

国民の福祉のため、国民の幸せの為であり、

これが「聖造(ひじりのわざ)」であるとの宣言である。

さらに、詔は、

「六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、

八紘(あめのした)を掩(おほ)うひて宇(いへ)と為さむこと、

亦可(よ)からずや」

と仰せられる。

これは、我が国を、一つの屋根の下に住む、一つの家族の国にする、という宣言である。

そして、この神武天皇の御創業における宣言は、

歴代天皇に受け継がれて、

現在に至っていることを知らねばならない。


先ず、次の仁徳天皇の詔を挙げる。


其れ天の君を立つることは、是百姓(おほみたから)の為なり。

然らば則ち君は百姓を以て本と為す。

是を以て古の聖王は、一人も飢ゑ寒(こごえ)れば顧みて身を責む。今百姓貧しきは即ち朕が貧しきなり。

百姓富めるは即ち朕が富めるなり。

未だ百姓富みて君の貧しきこと有らず。


明治天皇は、「五箇条の御誓文」とともに

「國威宣布の宸翰」を発せられ、次の通り宣言された。


今般朝政一新の時に膺(あた)り、

天下億兆、一人も其の處を得ざる時は、

皆朕が罪なれば、

今日の事、朕、自ら身骨を労し心志を苦しめ、

艱難の先に立、古列祖の盡させ給ひし蹤(あと)を履み、

治績を勤めてこそ、

始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かさるへし。


昭和天皇は「終戦の詔書」において戦没者のことに触れ次のように言われた。


帝国臣民して、戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者

及び其の遺族に想いを致せば、五内為に裂く。


その上で、

昭和天皇は、昭和二十年九月二十七日、

イギリスとソ連が、

日本における戦犯リストの冒頭に

天皇陛下を掲げて処刑を要求している時に、

アメリカ大使館に行幸されて

連合軍最高司令官D・マッカーサー元帥と会見し、

「自分の身はどうなってもいいから、

食料難に苦しむ国民を助けて頂きたい」

と要請され、

翌年二月から昭和二十九年まで、満八年の歳月をかけて

北海道から九州の沖縄県以外の全都道府県を巡幸された。

この昭和天皇の全国巡幸は、

天皇陛下自らが、

全国津々浦々の戦没者遺族、

被災者そして引揚者に親しく接して、

彼らを慰め激励する為に決定された。

そして、その行く先々で、

天皇陛下は、

涙を流す国民の「天皇陛下万歳」の喚呼の声に迎えられた。

天皇陛下は、ある時は孤児院を訪れて戦争孤児達を励まし、

ある時は地下四百五十メートル気温四十度の

炭鉱採掘現場を訪れ、

国のエネルギーを支える炭鉱労働者に

感謝の思いを伝え激励された。

この天皇陛下の全国巡幸は、

全行程三万三千キロ、お立寄り一千四百十一箇所におよび、

「日本という天皇を戴く一つの家族の国」

でしか起こりえない尊い御業である。

まさに、神武天皇の創業時に掲げられた八紘為宇の昭和の御代に於ける実践である。

この日本でしか起こりえないこと、

同じく敗戦国のドイツとイタリアを見れば明らかであろう。

欧州の国王は、敗戦の時は、他国に亡命するのが慣例である。


さらに、

先帝が、東日本大震災の際に発せられた次の「おことば」も、

八紘為宇の系譜のなかにある。

 

被災者のこれからの苦難の日々を、

私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。・・・

また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、

被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。


以上の通り、神武天皇御創業の志が、

萬世一系の歴代天皇を通じて、明らかに現在に貫かれている。


では、このような神武天皇の建国の志が、

何故、「日本」で発せられたのか。

そのわけは、この神武天皇の御創業を生みだす母体である

日本列島に於ける

一万五千年にわたる人々の定住生活が続いた縄文時代にある。

この縄文時代の世界に比類無き特色は、

日本全土にわたって、定住集落を囲む防御壁がない、

ということだ。

是が、八紘為宇の志が生まれる淵源である。

そこで次に、

幕末と明治維新を経て、

我が国が世界に向かって開国した

世界史的意義は何かを確認しよう。

従来は、

文明開化という言葉に象徴されるように、

未開の我が国が、

先進国世界の文明の恩恵を受けたという観点が主流であった。

しかし、開国した我が国が、

世界に何を及ぼしたのかという観点から観れば、

明らかに我が国でのみ生まれた八紘為宇の志が、

世界史を大転換させたことを知らねばならない。


幕末明治維新期を生きた日本人、西郷隆盛は、

明治三年に言った(西郷南洲遺訓)。


「余嘗て或人と議論せしこと有、

西洋は野蛮ぢやと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。

否野蛮じゃと畳みかけしに、

何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、

実に文明ならば、未開の國に対しなば、慈愛を本とし、

懇々説諭して開明に導く可きに、

左はなくして未開蒙昧の國に対する程

むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮じゃと申せしかば、

其の人口をつぼめて言無かりきとて笑われける。」


明治四年七月から明治六年九月まで、

岩倉具視を団長とした

明治新政府首脳を団員とする岩倉訪欧米視察団は

日本を留守にして欧米を廻っており、

一人、西郷隆盛が日本に留まり、

廃藩置県の大業を完遂していた。

この時、明治五年七月、清国人奴隷二百三十一人を積んだ

ペルー船籍船マリア・ルス号が横浜港に入港した。

外務卿副島種臣は、神奈川権令大江卓に奴隷救出を命じ、

日本政府は清国人奴隷を解放した(マリア・ルス号事件)。

この事件は、日本が世界に向かって

「奴隷制度」を否定した最初の例である。


一九一八年(大正七年)、

ロシア革命で内乱の坩堝となったペテログラードから

八百九十五名の子供達がウラルに疎開した。

しかし彼らは、

内乱の拡大で「ウラル山中をさ迷う子供達」になった。

そして、各国混成の救援隊が彼らを保護して六千キロ東のウラジオストックに送り保護した。

この子供達を父母の元に帰すには、

陸路は不可能で海路しかなかった。

ところが、

多くの機雷が撒かれている海を航行しなければならないので

アメリカを含む各国で、それを引き受ける船が無かった。


その時、一九二〇年(大正九年)七月、

日本の陽明丸(船首勝田銀治郎、船長茅原基治)が、

ウラルの子供達の輸送を引き受け、

ウラジオストックに敢然と入港した。

そして、太平洋と大西洋をわたり機雷の浮かぶ海域を突破して

同年十月十日、フィンランドのコイスビスト港(現在、ロシア領)に入港し、

ロシアの子供達は陸路ペテログラードの父母の元に帰った。


同時期、シベリアには十九世紀から二十世紀にかけて、

ロシア帝国によって流刑され連行されて働かされていた

十五万から二十万人のポーランド人がいた。

しかし彼らは内戦によって難民となり

極寒のシベリアでほぼ全滅し、

シベリア出兵中の日本軍と日本赤十字によって

一歳から十六歳までの七百六十五人のポーランドの孤児達が救出された。

そして、彼らはウラジオストックから日本の敦賀港に入り

東京と大阪で約一年間過ごした後、

母国ポーランドに帰国していった。

横浜と神戸の港から船に乗った孤児達は、

大声で「ありがとう!」と叫び

「君が代」と「ポーランド国歌」を合唱した。


一九三八年(昭和十三年)三月八日、

ソ満国境の駅オトポールで、

欧州におけるナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人が足止めされ全員凍死の危機が迫っていることを知った

ハルピン特務機関長陸軍少将樋口季一郎は、

ユダヤ人救出を決意し、

満鉄総裁松岡洋右の協力と

関東軍参謀長陸軍中将東條英機の了解を得て、

特別列車でユダヤ人を救出し上海租界に送った。

イスラエル政府は、

救出されたユダヤ人は二万人と発表している。


ドイツのリッペントロップ外相は、

ユダヤ人救出を日本政府に抗議したが、

東條関東軍参謀長は

「人道上当然のことをしたまでだ。日本はドイツの属国ではない」と云い、

東京の閣議に於いても

「八紘為宇である」とドイツの抗議を相手にしなかった。

以上の通り、

明治維新によって国際社会に参入した日本は、

国際社会で、これら八紘為宇に基づく事績を重ねながら、


そして、二十世紀に、日本は、

人種差別なき、

そして

植民地支配なき国際社会の実現を目指して

大東亜戦争を戦い、

現在の世界を創ったのだ。


西村眞悟FBより

日本日本日本


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はい。妹がいましたので。