宦官に関する回想と連想 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
宦官に関する回想と連想

既に記したように、
ファーウェーの女帝と
その後ろに立つ下僕たちが
宦官制度を思い出させてくれたので、
もう少し、
宦官について書いてみる。

先ず第一に、宦官の存在は、
支那や朝鮮では、
二十世紀に入っても当たり前の「制度」であったのだが、
我が日本では、
古代から、このことを想像できない。
聖徳太子の周りに宦官がいたとか、
安土桃山時代に大阪城の周りの高級官僚の住む邸宅の主は、
総て宦官であったとか、
江戸時代の幕府の要職は、ほぼ宦官であったとか、
こんなことは、我が国の歴史を顧みて思いもつかない。
しかし、
中国では男根を切除する刑罰があり、
さらに皇帝に近づくために、
自ら男根を切除して宦官になるのは当然のことであった。
日本には天皇の側近になるために男根を切った者は皆無であり、
男根を切る刑罰などない。
腹を斬れと命じた君主は多くいるが、
男根を斬れと命じた者は皆無だ。
つまり、
中国と朝鮮と我が国の距離は、
我が国と欧米諸国との距離より遠いのだ。

そもそも日本人の日常では、
宦官という存在そのものが想像できない。
従って、武田泰淳の名作、まことに名作
「司馬遷」の冒頭は
次の通りである。

「司馬遷は生き恥さらした男である。
士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、
この男は生き残った。
口惜しい、残念至極、情けなや、進退谷(きわ)まった、
と知りながら、おめおめと生きていた。
腐刑と言い宮刑と言う。
耳にするだにけがらわしい、
性格まで変わるとされた刑罰を受けた後、
日中夜中身にしみるやるせなさを、
噛みしめるようにして、生きつづけたのである。
そして執念深く『史記』を書いていた。
『史記』を書くのは恥ずかしさを消すためではあるが、
書くにつれてかえって恥ずかしさは増していたと思われる。」

これはまさに、
宦官の実態を想像できない日本人の書いた名文である。
しかし、支那では、前記の通り
任官するために自ら男根を切除することは当たり前であった。
十四世紀の軍人にして大航海を敢行した鄭和も宦官だった。
清朝の最盛時、
宮中に二千名の宦官がいたと言われるが、
1911年の清朝滅亡の時も、
紫禁城から約一千名の宦官が、
切除した自分の男根を入れた壺を大事そうに持って
粛々と出て行ったという。
彼らの最年少の一人であろうか、
平成八年(一九九六年)、
最後の宦官が九十四歳になって北京で亡くなったという。

武田泰淳と同じ東京大学文学部支那文科を卒業した人が、
我々の高校の漢文の先生であったが、
授業中に司馬遷のことを語った時、
武田泰淳の「司馬遷」の冒頭の一文
「司馬遷は生き恥さらした男である」
を繰り返し紹介し、
「僕も男根を斬られたら、生きていけない」
としきりに呟いたので、
我々は、その時、三十歳を遙かに超えた独身の彼に
「生き恥さらし」の「宦官」という渾名をつけた。
その後、この先生は、
めでたく教え子と結婚された、が。

何しろ、日本人には
「耳にするだにけがらわしい」が、
それを当然の制度として
二十世紀に入っても宦官がいたのが中共である。
従って、我々日本人は、
現在の
感情を表さない習近平主席や
嘘を当然のように無表情で語る中国外務省報道官を
サイボーグのように思うのだが、
サイボーグではなく、
武田泰淳の表現を借りて、
實は、生き恥さらしの宦官だ、
と思ったほうが、
実態に近いのではないか。
この二十一世紀の前半には、
北京の共産党独裁帝国の宦官たちは、
また百年前と同じように「紫禁城」から出て行く運命にある。
我々は、目の黒いうちに、
それを見届けねばならない!

中国ブー中国ブー中国ブー

世界の女性兵士👩🏻‍✈️👩🏻‍✈️👩🏻‍✈️
何処の国の女性兵士でしょーか?👩🏼‍🏭👩🏼‍🏭👩🏼‍🏭