本日七月二十三日、
これから、東京オリンピックの開会式を迎える。
武漢ウイルスの世界的蔓延のために
昨年の開催が本年に延期されて
本日の開会式となったものだ。
しかし、
本年は昨年と違って武漢ウイルスがなくなったわけではない。
昨年と同様に武漢ウイルスは蔓延している。
従って、去年と同様に
オリンピックを中止すべきだという声が上がっている。
しかも、その声に「反政府の卑しい思惑」や、
さらに「反日の臭い匂い」が漂っている。
とはいえ、
現在までのオリンピックをやるかやらないかの議論は、
宴会をするかしないかの興行士同士の議論の次元である。
そこで、興行士的ではなく
文明論の観点から、
日本でオリンピックを開催する意義について記しておきたい。
そもそも、オリンピックは、
古代ギリシャのオリンピアで、
主にゼウスを祭神として、
時に、ポセイドンやアポロンを祭神として
四年に一度、行われていた神事としての競技会である。
古代の日本で、神事として行われていた相撲と同じだ。
そして、古代ローマ帝国が
ギリシャを征服した後もオリンピックは続いた。
古代ローマも多神教の世界だったからだ。
しかし、西暦392年、
ローマ帝国がキリスト教を国教としてから
何が起こったかと言えば、
ギリシャやローマの古代の神々は否定され、
その文明の排斥が始まったのだ。
まず、帝国内にある膨大な図書館が封鎖され破壊された。
それらの図書館の蔵書は、
ギリシャ語やラテン語で
古代ギリシャ・ローマの多神教世界を叙述していたからである。
唯一絶対の神以外の神を許容しない一神教は、
ローマの国教となるや多神教の排除に乗り出した訳だ。
そして、翌西暦393年、
ローマの元老院はギリシャのオリンピアの競技会の廃止を決定した。
オリンピア競技会は、
ゼウスやポセイドンやアポロンという神々の神事であるからだ。
もしこの時、ローマ帝国と日本が隣国同士で日本が弱ければ、
日本の今に伝わる相撲や各地の祭り(神事)は、廃止されていたであろう。
このオリンピアの競技会が廃止された393年を以て、
歴史家はギリシャ・ローマ文明の終焉としている。
そして、時は流れ一千五百年後にフランスのクーベルタンが
1896年に近代オリンピック競技会を始めた。
これは神事では無く、純粋な競技会である。
一神教のキリスト教圏では
ギリシャのような多神教世界の神事としての競技会には戻れないからだ。
従って、近代オリンピックは「純粋な競技会」であるから
必然的に「興行士」が運営することになる。
そこで、
このオリンピックが日本で行われることの
文明論的意義は何か。
それは、オリンピックが一千六百年ぶりに
古代ギリシャと同様の
多神教世界に戻って行われるということだ。
このこと、あまり自覚されていないが、
考えてみれば、
人類史におけるこの意義は、計り知れないではないか。
従って、我々日本人は、
日本でオリンピックが開催されて
古代ギリシャのゼウスやポセイドンやアポロンの神々、
そしてローマの最高神ユヒテルと、
我が日本の山川草木におられる八百万の神々が
「世界の祭りが日本に来た」と
手を取り合って喜んでいると
無邪気に喜んだら良いではないか。
(興行士的な何処かの知事がしゃなりしゃなりと出るよりも)
東北の山間地出身の朴訥な総理大臣が、
この機会に、世界に向かって、一杯飲んでから、
日本でオリンピックが行われて、
古代ギリシャのオリンピックの神々は、
古代ギリシャと同じ神々がいる日本に来て喜んでくれている!
このギリシャ・日本の東西の喜ぶ神々のお陰で、
世界の武漢ウイルスも、
このオリンピック後に終焉する!
と、演説したら、
キリスト教の欧米の皆の衆、唖然として、
ビックリしよるやろなあ!
しかし、早晩、現実にそうなる。
諸兄姉、不肖西村は、
一神教のキリスト教がローマの国教となって以来の
一千四百年余におよぶ人類確執抗争の流れは、
今、終焉期に入りつつあり、
次は、
多神教の神々の寛容の世界を当然とした
太古からの日本創業の理念である「八紘為宇」
つまり「一つの家の一つの家族」が
地球の人類の理念となると感じている。
世界の女性兵士👮🏻👮🏻👮🏻
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