現在日本の救国への転換の鑑
明恵上人と北条泰時
如何なる形態であれ、国家があれば、
そこに、その国家の基本を示す憲法がある。
その憲法には、
憲法典として紙に書かれた「形式的意味の憲法(成文憲法)」と
憲法典として紙に書かれていない「実質的意味の憲法(不文憲法)」の二種類がある。
アメリカは、イギリスの植民地であったが、
本国の課税に対する不満から一七七六年独立を宣言し、
独立戦争を経て
一七八七年にアメリカ合衆国憲法を制定して今日に至る。
このアメリカの母国であったイギリスには成文憲法はなく、
一二一五年のマグナ・カルタを主要な法源とする「不文憲法」がある。
すなわち、アメリカには
「形式的意味の憲法」があって「実質的意味の憲法」はなく、
イギリスには
「実質的意味の憲法」があって「形式的意味の憲法」はない。
アメリカに限らず、近現代に革命や戦争の後に建国された国は、
ソビエト連邦や中華人民共和国のように
建国以前の規範を殺戮によって否定して建国したのであるから
「形式的意味の憲法」があるが「実質的意味の憲法」はない。
これで明らかなように、
「紙に書かれた憲法典」が登場するのは近代に入ってからだ。
我が国も明治二十三年(一八九〇年)に
大日本帝国憲法が施行され
「形式的意味の憲法」をもつ国になった。
しかし、我が国は、この大日本帝国憲法を持つ以前から、
神話にある神武創業以来の「実質的意味の憲法」を保有し、
その神話を憲法典に顕した希有の国だということを没却してはならない。
それ故、慶応三年(一八六八年)十二月九日に、
明治天皇が発せられた「王政復古の大号令」は、
厳然と「神武創業之始めに原(もとづ)く」と宣言されている。
振り返れば、古代ギリシャや古代エジプトは
「神託」が憲法の法源であった。
ギリシャのデルフォイの「アポロンの神託」は、
ギリシャ諸国家を統治する「不文の憲法」であった。
この古代ギリシャと同様に、日本は、
「アポロンの神託」と同時期の
「天照大御神の天壌無窮の神勅」による天皇を、
現在に至るまで百二十六代に渡り、
国家統治の中枢とする国家なのだ。
このことを、
平成から令和への御代替わりにおいて為された、
大嘗祭や四方拝という宮中祭祀を、
目の当たりに見た我々は、
世界の諸民族の中で、
我が日本のみが太古からの神勅という
「実質的意味の憲法(不文憲法)」
によって運営されている世界唯一の
とてつもない「近代国家」であることを確認したのだ。
そのうえで、
現在の我々が抱える問題について述べる。
それは、「アポロンの神託」とほぼ同時期の
「天照大御神の天壌無窮の神勅」
を不文の憲法として現在に至る我が国に、
昭和二十年九月二日から七年間、
我が国を占領統治していたアメリカ軍を中心とする連合軍が
書いて残した
「日本国憲法」
と題する文書を如何にするかである。
即ち、今、現在の歴史的大転換期に、
我が国家共同体の「根本規範」は何か、
「天照大御神の天壌無窮の神勅」
を不文憲法として現在に至る歴史と伝統か、
それとも、
昭和二十二年五月三日に施行された占領軍のアメリカ人が書いた
「日本国憲法」と題する文書なのか、
という深刻なジレンマが生まれている。
如何にしてこれを克服するか、
次に、先人が叡知に基づいて実践した先例を記したい。
私は、昭和四十一年の高校三年の夏、
和歌山県由良町にある臨済宗の禅寺である興国寺で過ごした。
親には、当初、大学受験勉強をすると言って寺に出向いたが、
三日目から受験勉強はせず、
朝は四時に起きて鐘を打ち、そして座禅、次に掃除という労務、
そして一日の終わりは座禅の後に酒
という生活サイクルに入った。
その間、西の山中に入り峠を越えて衣奈海岸に下りて
湯浅湾とそこに浮かぶ島々を眺めた。
目の前に黒島が浮かび北に雁島そして藻苅島に続く。
その光景は今も目に焼き付いている。
それから十数年後、
約八百年前に、
由良町の北の湯浅町の海岸沿いの白上山の頂に建てた
粗末な庵から
同じ湯浅湾と島を眺め、
晩年、雁島が恋しくて耐え難く、京都の栂尾高山寺から、
雁島に恋文を書き、
昔雁島で拾った小石を終生持っていた明恵上人のことを知った。
明恵上人は、
雁島に上がってこれを読み上げておくれ、
と言って恋文を使者に託したという。
明恵上人(一一七三年~一二三二年)は、
湯浅湾に流れ込む有田川の中流域で武家の子としてうまれた。
八歳の時に、
母は病死し父は源平の騒乱で東国で戦死して両親を亡くし、
京都の神護寺に預けられ仏門に入る。
しかし、二十~三十歳代の約十年間、
寺から出て湯浅湾に面する白上山に入り、
自分で右の耳を切り落とす激しい修行に打ち込み、
三十三歳の頃、
後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜され京都に戻った。
そして、ますます鎮護国家を掲げる華厳密教の修行に打ち込む。
承久三年(一二二一年)、
後鳥羽上皇は武士団に鎌倉討伐の院宣を下し、
鎌倉の執権北条義時の武士団と激突する
「承久の乱」が勃発した。
この乱は、西日本を統治する京都の旧体制と
鎌倉を中心とする東国の新興武士団の初めての激突だった。
とはいえ、
鎌倉武士団は、
尊い伝統的な権威である上皇の院宣に刃向かうことを恐れた。
その恐れる武士団の前に
故源頼朝の妻政子が現れて叱咤した。
「皆の衆、心を一つにして承れ。
故頼朝殿が、朝敵を滅ぼし関東を草創して以来、
官位といい、俸禄といい、
その恩はすでに山よりも高く、海よりも深い、
その恩に報いる思いの浅いはずはありませぬ。
昔、侍たちは朝廷から京の警護を命じられて
三年間の大番を終えて関東に帰るとき、
着るものも、ろくろく揃えられず、
裸足でやっと帰着してきたではないか。
故頼朝殿は、この状態を哀れと思われ、
朝廷と交渉され、
諸人が助かるように取り計らっていただきました。
これほど御情け深く尽力された御志を忘れたか。
京に参るか、留まるか、
只今、この場で決めなさい!」
執権北条義時の姉、頼朝の妻政子の言葉に、
武士団は涙を流し言った。
「心なき鳥獣でさえ、恩を忘れぬと承ります。
代々御恩を被りましたからは、
いかなる野の末、道の辺までも行き向かい、
都に向かって屍をさらしましょう。」
そして、
義時の長男泰時が、まず少人数で東海道を京に向かう。
しかし、泰時は、
藤沢から単騎で鎌倉に駆け戻ってきて父義時に尋ねた。
「父上、もし後鳥羽上皇が
兵を率いて前線に出てこられたらどうしましょうか?」
義時は、答えた。
「御自身出陣の折は、院の御輿に弓を引くことはならぬ。
かぶとを脱ぎ、弓の弦を切って身を任せ奉れ。
院が出陣しないで都にいて、
諸将に軍兵を預けた際は、
徹底して戦え。」
以上は、吾妻鏡によるが、
当時の朝廷の権威の強さがうかがえる話である。
鎌倉方は、
この義時の長男泰時(一一八三年~一二四二年)を総大将とする
総勢十九万の武士団が、
東海道、東山道そして北陸道の三手に別れて西に向かい
勢多で合流した。
果たして後鳥羽上皇は前線に出馬されなかった。
よって、
泰時は総攻撃を命じ 、上皇方武士団は潰滅した。
続いて京都になだれ込み、
追撃戦に入った十数万の鎌倉方の東国武士たち全員の腰には、
討ち取られた上皇方武士の首がぶら下がっていたという。
明恵上人は、
栂尾山中に逃げ込んだ大勢の上皇方武士を匿った。
捕らえた明恵上人を、高僧とみた鎌倉方の兵が、
泰時の前に明恵上人を引き立てたとき、
明惠上人は、泰時に言った。
我が山では、鳥獣も猟師に殺されることはない。
ましてをや人間は殺されるはずがない。
これがダメなら私の首を斬られよ、と。
明恵上人は、
無私無欲の人で清廉であり、
世俗権力、権勢を恐れることはいささかもなかった。
この明恵上人の、
鎌倉方総司令官、直後に第三代執権になる
北条泰時の前で示した毅然たる態度は、
価値観の相剋する狂気に似た殺戮戦の中で、
命をかけて人間の持つべき変わることのない
普遍的で根源的な道理を示したものである。
ここから、
明恵上人と執権北条泰時の魂の交流が始まる。
承久の乱の後十年以上の歳月は、
上皇方の勢力から取り上げた
三千箇所以上の広大な領地の分配と、
奈良時代からの律令によって形成された京都の社会規範と
新興の東の武士団との文化的また利害が絡む相剋に、
執権北条泰時と弟の六波羅探題の重時は忙殺される。
この混乱の中で、明恵上人は、
北条泰時の統治思想の形成に大きな影響を与え続けた。
それは、殺戮の現場での初対面において、
明恵上人が毅然として示した「人間の道理」である。
貞永元年(一二三二年)、北条泰時は、
聖徳太子が
大宝律令や養老律令が制定される百年前に発した
十七条憲法(六〇四年)を基軸に、
その三倍の条文をもつ五十一条からなる御成敗式目を
武士団の為に制定する。
その制定の目的を泰時は、
京都の六波羅探題である弟の重時に
次のように書き送った(「泰時消息文」)。
「京には律令というのがあるが、
我らの五千人に一人もそれを読めない。
従って、律令に裁かれれば、
山に入って猟師の仕掛けた罠の穴に落ちるようなものだ。
よって、我らは、律令ではなく、
我らの慣習や伝統そして頼朝殿の裁定によって、
これからも生きてゆく。」
つまり、御成敗式目とは、
我が国の歴史と伝統の中にある規範(慣習法)と
頼朝殿の裁定(判例法)を法源とする「不文憲法」なのだ。
これは、イギリスの不文憲法が
慣習・習律(custom・convention)と
判例法(case law)を法源とするのと同じだ。
そこで我々が、
現在の北条泰時であればどうするか?!
泰時と同様に、
如何なる「消息文」を書くか。
私は、次のように宣言したい。
「戦後日本には、
『日本国憲法』という文書があるが、
これを書いたアメリカ人たちは、
日本は戦争を放棄して軍隊を保有しない、
交戦権は認めない、
そして、
平和を愛する諸国民を信頼したら平和になるとしている。
しかし、現実は平和どころか、
我が国は、北朝鮮に、
おそらく一千名を超える多数の国民が拉致されるのを
防ぐことも出来ず救出することも出来ない。
韓国に
竹島という領土を奪われたまま奪還することもできない。
中共に、
まさに尖閣諸島を奪われんとしているのに、
軍艦を出して防衛しようとはしていない。
我が国の廻りには、平和を愛する諸国民はいない。
また、
憲法九条のお陰で、
北朝鮮は安心して日本人を拉致し、
安心して我が上空にミサイルを飛ばすことが出来る。
即ち、北朝鮮による日本国民の拉致と
我が国の上空を飛ぶ北朝鮮のミサイルは、
『日本国憲法』が生みだしているのだ。
よって、我らは、
これから『日本国憲法』ではなく、
それ以前の、
ご先祖と無量の英霊が、
日本を守り通してくれた尊い鉄則に戻って
祖国を守りぬき
八紘為宇すなわち万民保全の道を拓いてゆく。」
以上、「
月刊日本」誌への投稿文に加筆したもの。
西村眞悟FBより
世界の女性兵士👱🏼♀️👱🏼♀️👱🏼♀️
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