鎌倉時代の、丁度、承久の変(一二二一年)の時に、
京都栂尾高山寺に明恵上人という方がおられた。
この乱は、
史上初の朝廷方武士団と武家政権との間の大内乱であり、
吾妻鏡によると
鎌倉から北条泰時が指揮する東海軍十五万、
東山軍五万、
北陸軍四万、合計十九万が
各所で朝廷軍を打ち破って京都になだれ込んだ。
そのなだれ込んだ関東武士団のほとんどの武士の腰には、
京都方の武士の首がぶら下げられていたという。
乱後、
近畿に所在する公家や朝廷方武士団の所領三千箇所が
鎌倉武士団に分配され、
父の執権北条義時没後(一二二四年)に執権となった
泰時によって、
武家政権の法である関東御成敗式目が制定されてゆく。
執権となった北条泰時は京都の六波羅探題の弟の重時に対し、
京には律令というものがあるらしいが、
俺たち(武士)の五千人に一人もそれが読めない。
従って、そんなものに裁かれれば
山に入って猟師が仕掛けた猪穴に落ちるようなものだ。
俺たちは、俺たちの法、
つまり慣習や頼朝殿の裁いた先例(慣習法と先例法)に従う、
と書き送って(泰時消息文)、
関東御成敗式目を制定した。
この条文は五十一条、
つまり、聖徳太子の定めた
「十七条の憲法」の三倍の条文である。
そして、我が国では、
江戸時代が終わって明治になっても
寺子屋でこの関東御成敗式目が教えられてきた。
即ち、大宝律令や養老律令は、
当時から忘れられていて、
一般国民に対して法として機能していないが、
関東御成敗式目は、明治以降も法として機能してきたのだ。
よって、承久の変と関東御成敗式目は、
現在に至る我が国の歴史に大きな影響を与え続けたと言える。
そして、その主役である執権の北条泰時に
大きな影響を与えたのが明恵上人だ。
栂尾高山寺の山に、
逃げ込んできた多くの朝廷方の落ち武者を明恵上人は保護した。
それを咎められて北条泰時の元に連れてこられた明恵上人は、
漁師に追われた鹿や猪も、
我が山では守られ殺されることはない、
ましてをや、我が山で、
人は殺されるはずがない、と言った。
以来、明恵上人は、
関東御成敗式目の制定など
我が国の歴史に大きな影響を与えた北条泰時に対して
深い影響を与え続けたのだ。
さて、和歌山は北の高野山から南の熊野灘まで、
一千㍍を超える山脈(最高峰は龍神岳一三八二㍍)が連なり
山岳から出た数本の河川が西の太平洋に流れ込む。
その最高峰付近を水源とする有田川の中流で
明恵上人は生まれた(一一七三年)。
父は平重国、母は湯浅宗重の四女。
そして、八歳の時に、
母が病没し、次に関東で父が源平の争乱で戦死したので、
京都の神護寺に入り僧侶の修行に入る。
しかし、青年期に入り寺の生活に飽き足らず、
二十三歳で郷里の有田川河口の南の湯浅湾に面して聳える
栖原の白上の峯に造った草庵に籠もって寝食を忘れて修行し、
その間、釈迦に近づく為に自分で右耳を切り落とし、
時に峯から眺められる無人島の鷹島に渡り一人で籠もる。
この修行の間、
明恵上人の学徳は一挙に高まり、
後鳥羽上皇から華厳学実践の地として神護寺の北の
栂尾の地を賜り、
遂に、三十四歳で郷里を離れて京に戻り、
栂尾に高山寺を開き、
そこで六十歳で入寂する(一二三二年)。
しかし、明恵上人は、
生涯、郷里の白上の草案から眺めた湯浅湾の風景と
苅藻島や渡って独居した鷹島を忘れられず、
鷹島で拾った小さな石を終生持っていて、
遂に我慢できず、
昔に愛した人に宛てたような恋文を島宛てに書いた。
島に届けてくれと言われて困惑した使者に対して、
明恵上人は
島に上がって手紙を読み上げておくれと言った。
また、入寂が近づいた時、
明恵上人は、鷹島で拾った石に次のように書いた。
「我なくて後に愛する人なくば、
飛びてかへれね鷹島の石」
そこで、
この明恵上人の華厳学などの高い学徳には一切無知で
無粋な西村が、
何故に明恵上人のことを書いているのか?
その縁(えにし)を書いてみたい。
和歌山中部の有田川河口の南に醤油発祥の地の湯浅町があり、
この町の海に面した漁村の栖原の山の頂きに明恵上人は籠もって
湯浅湾の島々を眺めて修業をしていた。
この南に「稲むらの火」で有名な広川町があり
その広川町の南に由良町がある。
不肖西村は、昭和四十一年の夏、
受験勉強と称して、この由良の興国寺に入り、
実は朝は四時に起きて鐘をついて座禅、
それから掃除、それから般若糖(実は酒)の生活を続け、
時に西へ山中を衣奈海岸まで歩いて湯浅湾で泳ぎ、
海岸に座って前に浮かぶ黒島や、
その右手の
明恵上人の上陸した鷹島や苅藻島を眺めていた。
その青春の日々に眺めた湯浅湾の風景は、
五十五年後の今も懐かしく切なく瞼に甦ってくる。
そして、後年、
明恵上人も若いときにその同じ島を眺めていて、
晩年に我慢しきれなくなって、
昔の恋人に手紙を送るように
島に恋文を送ったことを知ったのだ。
明恵上人との、
この情感の一致に堪らなくなって、
一昨日の午後、
湯浅町栖原に走り、
明恵上人のいた山の上から湯浅湾と島々を眺めた。
そして、昨日の午後、
京都の栂尾高山寺に走り、明恵上人の入寂の地に佇んだ。
また、
この情感の共鳴とは別に、
北条泰時の、
京都の律令に頓着しない関東御成敗式目の制定は、
現在の、
「占領軍による日本国憲法」に囚われない
「日本の眞の憲法」の確認に大きな手本になると考えられ、
この式目制定に大きな影響を与えた
明恵上人を深く偲びたくなったのだ。
湯浅町栖原と
栂尾高山寺を訪れてよかった。
∞
明恵上人の像、右側の耳が切り落とされている。栂尾山中での座禅図。素朴な今も有田川を歩いている人のようだ。
上人が青年期に修行した嶺から望む湯浅湾。右から苅藻島、恋文を送った鷹島。鷹島で拾い終生持っていた石(小さい方)



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