十死零生 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

七十六年前の昭和二十年五月二十四日18:50、
義烈空挺隊総勢百六十八名が、
沖縄の米軍の拠点である
北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場に突入して着陸の上
B29爆撃機を初めとする航空機と基地機能を破壊する為に、
十二機の九七式重爆撃機に十四人ずつに分かれて分乗し、
熊本の健軍飛行場から出撃した。
そして、22:11、
沖縄上空に達したと打電した八機百十二名の義烈空挺隊は、
「十死零生」、誰も生還しない。
従って、
写真に残る出撃直前に整列する義烈空挺隊の姿は
既に「英霊」である。
そして、
空挺隊長の奥山道郎大尉と飛行編隊長の諏訪部忠一大尉は
乗り込んだ重爆撃機の上から肩を組んで
地上の生きる者に笑顔で最後の挨拶を返している。

彼らは、翌二十五日13:00、
読谷北西約六キロの岬で最後の一人が戦死して全滅するまで勇戦敢闘し、
アメリカ軍の七万ガロンの石油を焼却し、
三十九機の航空機を破壊損傷し、
北飛行場機能停止、中飛行場使用制限という戦果を挙げた。
この目に見える戦果以上に、
義烈空挺隊は、アメリカ軍に
鬼神が空から襲ってきたような精神的衝撃を与えた。

そこで、
令和三年五月二十四日、
「空の神兵」顕彰会
特攻戦没者慰霊顕彰会が主催する
「靖國神社昇殿参拝 義烈空挺団慰霊・顕彰の集い」が
靖國神社で開催され、不肖西村は講演をさせて戴いた。

昭和十六年八月一日、
前任のフーバー大統領から「戦争を欲する狂人」と言われた
アメリカのF・D・ルーズベルト大統領は、
海軍作戦部長のスターク海軍大将の
「対日石油全面禁輸措置をすれば確実に戦争になる」
との回答を確認したうえで、対日石油全面禁輸を発令した。
この措置は、我が国にとって
早晩、船も航空機も工場も動かなくなり「亡国必至」を意味する。
よって、
長野修身海軍軍令部総長は、次のように言った。
「戦わざるも亡国、また、戦うも亡国、であるとして、
戦わない亡国は、永遠の亡国であるが、
戦ったうえでの亡国においては、
後に続く日本国民は必ず再起し三起して祖国を再興してくれるのである。
従って、我ら軍人は、戦うのみ。」
まさに、
この思いを以て我が国は大東亜戦争に突入し
軍人は、戦い玉砕していった。
従って、英霊とは、
今に生きる我々が、
慰霊・顕彰する対象であるに止まらず、
今に生きる我々に対して、
魂魄となって国家の再興を促し、
我々を叱咤激励する存在なのだ!

即ち、英霊は生きているのだ!

同時期の昭和十五年、
我が国が戦ったイギリスの首相チャーチルも同じことを言った。
八十万のドイツ軍に四十万のイギリスの陸軍主力が
ダンケルクに追い詰められ孤立無援となった時、
イギリス政界に対独和平の動きが起こった。
そこで首相であるチャーチルは演説した。
「この長い歴史をもつ私たちの島の歴史が、
遂に途絶えるのなら、
それはわれわれ一人ひとりが、
自らの流す血で喉を詰まらせながら
地に倒れ伏すまで戦ってからのことである!」

英霊は生きている!
英霊は生きている!
従って、
二十四日午後四時過ぎ、
昇殿参拝と慰霊と顕彰の会を終えた、私は、
どうしても直会をしなければならないと切に思った。
昼ご飯を食べていなかったので空腹でもあった。
しかし、
靖國神社の中で飲酒はできないどころか、
二分の一升ビン二本を持って
銀座、神田、新富町、築地を廻っても店内への酒持ち込みを断られた。
とうとう、酒(御神酒)は諦めて
築地の場外で頑張っている寿司屋に入り酒ナシでにぎりを食べた。
美味しかった。
しかし、
直会の為に宮崎の同志鬼塚禮兆が送ってくれ、
堺の自宅から鞄に入れて持ち歩いていた酒、
どうしても東京で飲まねばならない!
よって、
二十四年前に共に尖閣諸島魚釣島に上陸した戦友の
映像教育研究所の稲川和男と共に、
東京駅の新幹線プラットホームで
急いで二人で御神酒を飲んで直会をし、
千葉の稲毛近くの家に帰る稲川と別れ
新大阪行き新幹線に飛び乗った。

西村眞悟FBより



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