処世の道具として「人権」を持ち出す
みっともない面々を無視し、
外務卿副島種臣を見習え
森喜朗氏の発言の
「女がいる会議は長くなる」という部分だけを挙げて、
「女性蔑視発言だ」と、
得意げに白い上着を着て糾弾していた女たち、
また、
その女性蔑視糾弾の風潮に悪乗りして、
自民党の二階幹事長に、集団で押しかけ
「多くの女性を党の要職につけるように」と
情けない要望をしていた女たち、
が、いたことを思い出してみると、
彼らは皆、
既に忘れ去ったかのように、ケロリとして過ごしているが、
今現在、中共の新疆ウイグル自治区で
ウイグルの女性が、中共当局によって、
女性蔑視どころか、
強制的に避妊手術をされるなど
耐え難い酷い責め苦を受けている現実に
何故、反応しないのか?
また、
四月五日の産経新聞で、桜井よしこさんが
同十日の産経新聞で、産経抄氏が
指摘しているように、
何故、「人権の党」の看板を掲げた公明党は、
アメリカの政権が、
ウイグル人弾圧をジェノサイドだと認定したように、
我が国会が
「ウイグル人弾圧非難決議」をすることを阻止しているのか。
以上の通り、
我が国内で「人権」を持ち出して騒ぐ面々に限って、
中共が行っている人権侵害には無関心を装う。
さらに、マスコミは、連日、
武漢ウイルスと、その変異ウイルスの蔓延状況ばかり流していて
国会もそれに歩調を合わしているが、
現実の尖閣の危機に何故関心を向けないのか。
尖閣の危機は台湾の危機と不可分であり、
台湾の危機は、即ち、全日本の危機である。
つまり、尖閣諸島という小さな島は、
全東アジアと西太平洋が
中共の掌中に入るか否かの
要石(キーストーン)なのだ。
従って、
尖閣に上陸視察した私の
「国会内での体験」を記しておく。
平成九年五月に、尖閣諸島魚釣島から帰ってきて国会に入ると、
民社党と公明党と自民党の一部が合併してできた新進党内には、
少々騒ぎがあったようで、
西岡武夫幹事長が党の一任を受けて
西村から事情を聞き処理すると決まったと聞いた。
そこで、一任を受けた西岡幹事長に会うと、
「日本の領土に国会議員が行ったことを問題にするのがおかしい」
ということになった。当たり前じゃ。
しかし、その後、
党の幹事会が開かれる度に、
公明党から来た議員が、発言を求め、西村の処分を要求した。
三回目の幹事会で、
その議員の西村非難処分要求が三度目になった時、
私は発言した。
「幹事長が一任を受けたということだから、
今まで黙っていた。
しかし、三度も西村非難発言が為されるなら、
もはや一任もへっちゃくれもない。
皆に聞く、
日本の領土を守るために
国会議員が選挙で公約して
日本の領土を視察した。
この俺の何処が悪いんじゃ。」
その後、一任を受けている西岡幹事長が、驚いて治めた。
前記の通り、桜井よしこさんと産経抄が、
公明党の人権に関する消極性を指摘されたが、
それに加えて、私は、
中共が絡めば、
我が国土に関しても公明党は消極的になると指摘しておく。
とはいえ、対中姿勢がおかしいのは、
歴代内閣と外務省そのものであることを見落としてはならない。
外務省には陸奥宗光の銅像があるが、
今、内閣と外務省は、
陸奥に加えて、
副島種臣をこそ見習うべきだ。
副島種臣(一八二八年~一九〇五年)は
佐賀藩士として明治維新を迎え、
明治四年、岩倉具視や大久保利通や木戸孝允や伊藤博文などが
一年以上の欧米視察に出発したあとの政府を
西郷隆盛と共に支えた。
明治五年、横浜港に入ったペルー船籍の汽船マリア・ルス号に
二百三十一人の清国人が
奴隷として積まれていることを察知すると、
外務卿副島種臣は、人権尊重と博愛の精神を以て、
マリア・ルス号から二百三十一人の清国人奴隷を解放して
清国に戻した。
そして、その後のペルーとの国際裁判を堂々と勝ち抜いた。
明治六年、外務卿副島種臣は、
日清修好条約批准書交換の為に清国に赴く際に、
鹿児島に立ち寄り西郷隆盛と会ってから北京に向かった。
そして、清国皇帝に謁見するに際し、
副島種臣は、
三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)という清国が要求する
ひざまづき三度頭を下げる動作を三度することをせず、
立礼で済ました。
これは清国史上初めてのことであり、
いままで北京で三跪九叩頭を強いられてきた
英米仏露などの各国外交官から賞賛された。
その後、
明治二十三年一月、副島種臣は、
西郷隆盛の朝敵の汚名が雪がれ、
元庄内藩藩士たちによって編纂された
今に伝わる「南洲翁遺訓」の序文を書いている。
その末尾は
「ああ西郷兄、何を以てはやく死せるや、
この書を著す者は誰ぞ、庄内賢士大夫某々・・・」
まことに、高貴なる明治ではないか。
西村眞悟FBより
兵士と犬