「白骨街道」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

ミャンマーに関して、
もう一つだけ、忘れ得ないことをお伝えしたい。

大東亜戦争において、我が国は、三十二万人の兵力をビルマ戦線に投入した。
その内、生きて日本に帰れたのは十三何人で十九万人がビルマの大地に倒れ戦死した。
戦争末期に、退却する日本軍が辿った道には、戦没将兵の白骨が続いていた。
そして後にその道は「白骨街道」と呼ばれるようになった。
敵の銃弾や砲弾によって倒れる将兵よりも、
飢餓と疾病によって倒れる者が多かったと聞いている。
そして、戦後、
ミャンマーの国民は、親日的で
戦没将兵の墓や慰霊碑を建てて慰霊してくれている。
これは、何を意味しているのか。
退却する飢えた日本軍といえども、武器を持っている。
しかし、日本軍は村を襲って食料を略奪しなかったのだ。
これは、日本軍が如何なる苦難に陥ろうとも
「軍規」を維持していたことを示している。
後にネパール国王の戴冠式において、
出席した我が国の皇太子殿下(現在の上皇陛下)に対し、
同席したビルマ戦線のイギリス軍司令官だったマウントバッテン大将は、
次のように言った。
日本軍は精強で
如何なる状況に陥ろうとも軍規を守る驚くべき軍隊でした。
このような立派な軍隊は二度と再び生まれないでしょう。

私が初めてミャンマーを訪問した平成五年、
一千年近くにわたって立てられた無数のパゴダが見渡せる
仏教遺跡の町バガンに行った。
その一つの大きなダビニュパゴダの横の寺院の庭に、
インパール作戦に参加した三つの日本軍の軍団
祭(第15師団一万六千名)
烈(第31師団一万六千六百名)
弓(第33師団一万七千名)
の三つの慰霊碑が建てられていた。
慰霊碑に花を捧げて
寺院の中に入ってビルマのお坊さんに読経してもらった。
そして、礼拝を終えて寺院を出ようとするとき、
床に記帳ノートがあるのに気付き手に取った。
そのなかに、次の書き込みがあった。
「私の父は、このビルマの大地のどこかに眠っている」
涙が込み上げてきた。
私が、初対面のミャンマー軍事政権のトップだったキンニュン第一書記に
冒頭、先ず、十九万戦没日本軍将兵へのミャンマー国民の慰霊に対する御礼を言ったのは、
このバガンで湧き上がった思いがあったからだった。


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