空に消えていったパイロット達は微笑んでいる | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

空に消えていったパイロット達は
微笑んでいる。

本日(29日)の産経抄は、
シナウイルス禍による航空需要の低迷で
過去最悪の5100億円の赤字を出した
全日本空輸(ANA)の創業のことを書いていた。
戦後、GHQは、
日本の総ての航空事業を禁止した。
そこで、
朝日新聞の社長も務めた美土路昌一が
失業したパイロットや航空整備士(皆ほぼ軍人)を
救済する為の組織である
「興民社」の会長を引き受け、
「現在窮乏・将来有望」のスローガンを掲げ、
タクシー業、運送業、闇市での売買など、何でもした。
そして、航空事業が認められるようになってからの
昭和27年
ヘリコプター二機、社員30人で航空事業に乗り出す。
これが、全日空の創業である。

そこで、
NHKの「エール」という朝ドラが、
戦後いつまで経っても、
メソメソと戦争を反省して酒を飲んでいる人物を登場させて
反省しない者が悪いような
卑屈な自虐史観を国民に浸透させていることに、
今朝も胸糞悪くなっていたので、
ここで、
GHQとッカーサーが、心底恐れた、
我が帝国陸海軍の命を惜しまぬ多くのパイロット達と
生き残ってGHQに失業させられた
私の叔父(母の弟)の東儀正博や
パイロット達のことを記したくなった。

GHQに失業させられたパイロット達を救済するための
「興民社」の会長に、
朝日新聞の元社長が就任した理由は、
朝日新聞と軍部と航空事業とのつながりの深さだと思う。
それは、即ち、朝日新聞が、
陸軍から九七式司令部偵察機試作二号機の払い下げを受けて
それを「神風号」と命名し、
イギリスのジョージ6世の戴冠式取材と日英親善のため、
朝日の飯沼正明操縦士と塚越賢爾機関士が「神風号」に乗り込み
昭和12年4月9日、
東京からロンドンまで1万5357キロを
94時間17分56秒(操縦時間51時間19分23秒)
で飛行する世界新記録を樹立したことに由来する。
この世界記録樹立で、
朝日新聞の飯沼操縦士と塚越機関士は、欧米の英雄となった。
私の叔父の東儀正博は、
飯沼操縦士と同じ大正元年生まれで、
その時、陸軍航空隊のパイロットだった。
欧米諸国は、
日本が、機体もエンジンも純国産機で
日本人が操縦して世界記録を作ったことに驚嘆した。
昭和17年初頭、
フィリピンに配備されていたB17は
欧州戦線で一機も撃墜されなかった戦略爆撃機だが、
台湾の高雄基地から飛来したゼロ戦に
バタバタ撃墜されて全滅したとき、
司令官のマッカーサーは、事実に目を閉ざし、
日本軍はドイツ人を雇って操縦させていると本国に報告した。
日本機と日本人操縦士が白人に勝る能力をもっているのを
認めたくなかったのだ。
しかし、
既に昭和12年のロンドンに飛んだ神風号は
世界記録を打ち立て、
さらに、
同14年5月から9月までのノモンハンにおける日ソ戦で、
日本軍は、1673機のソ連機を撃墜し、
800台のソ連戦車を撃破している。
これに対して、
日本軍の損害は戦闘機179機が撃墜され、
29台の戦車が破壊されただけだ。
しかも、ソ連軍はジューコフ将軍率いる機械化部隊23万人で
我が方は熊本の第23師団2万人に過ぎなかった。
人的損害は、ソ連軍2万5565人、日本軍1万7405人。
確かに、我が国の第23師団は潰滅した。
しかし、
スターリンにしてみれば、
自慢の機械化部隊23万人が
日本軍一個師団2万人に潰滅させられたのだ。
これが、
スターリンのなかに強い対日恐怖心を与えて、
昭和20年の対日戦開始を遅らせた要因となる。
従って、
北海道へのソ連軍侵攻を阻止し北海道を救ったのは、
五年前にノモンハンで勇戦奮闘の後に潰滅した
第23師団の、二万の将兵達である。
このこと忘れてはならない。
この時、
大正二年生まれの陸軍航空隊の篠原弘道少尉(戦死後)は、
一人で58機のソ連機を撃墜して
ホロンバイルの荒鷲、東洋のリヒトホーヘンと呼ばれた。

大正元年生まれの東儀正博は、
中学校の時から飛行機操縦を志し、
昭和9年の第一回学生航空選手権大会東
西対抗三角飛行リレーで優勝し、
以後、陸軍航空隊に入りパイロットとして実戦に参加していく。
満州、中国戦線、南方戦線は飛びまくったと思う。
しかし、戦争のことは話さなかった。
ただ姉(私の母)には、
神風号の同じ歳の飯沼正明操縦士とは親しいと言っていたし、
撃墜王の南郷茂男中佐(死後)の墜落時に打電した訣別電は
同じ空域で飛んでいて傍受したと言った。
そして、姉思いで、
戦後に我が家にあったモーゼルやワルサーやコルトの拳銃は、
東儀が外地から、姉や義兄の護身用にと運んできたと聞いた。
戦後は、叔父の東儀が家に来て、
それらの拳銃を持ち出して飛行機に乗り、
八尾から飛び上がって大阪湾や太平洋に落としたと聞いた。
まことに、まことに、惜しいことである。
俺が、今、持っておったらなあ・・・!

戦後、叔父もGHQにパイロット資格を剥奪されたが、
「興民社」には入らず、
どういうルートをたどったのか聞いていないが、
すぐアメリカに渡り、そこでライセンスを取って帰国し、
戦死した飯沼飛行士のご縁か、
朝日新聞にパイロットとして入り、
飛び続けながら、
全日空のパイロット養成の教官と、
パイロットを目指す学生の指導を続けた。
そして、昭和43年、
インドネシアのアンボン島付近の海域に墜落した。
姉(私の母)には、
飛行機のコックピットが俺の棺桶だと言っていたという。
会社の人には、
あのニューギニアからオーストラリアに抜ける海域は、
戦時中飛び廻って庭のように知っていると言って
オーストラリアに運ぶ依頼を受けた飛行機の
操縦席に単身で乗り込み、
飛び立って行ったらしい。

叔父の飛行機によく乗った作家の石川達三さんは、
叔父の墜落後に
「人物点描」というエッセイに
次のように書いてくれた。

「東儀君は背丈のある重厚な感じの中年男で、
洒落た髭を生やしていた。」
「飯沼はプノンペンで戦死し塚越も空のどこかに消えていった。
そして、彼らの後輩の東儀君も、彼らの後を追うた。
男の職場は、すなわち男の死に場所でもある。
男が生涯をかけた仕事はまた、
男の命を奪う仕事でもある。
船乗りは海で死ぬ。飛行士は空で死ぬ。
東儀君にとっては、
本望であったかも知れない。」


西村眞悟FBより