「空に消えた面影」戦うことが亡国ではない 戦わないことが亡国である。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

戦うことが亡国ではない
戦わないことが亡国である。

昨日は、自虐史観が、
受けとめる人々が気付かないうちに、
テレビ画面を通じて家庭に入り込む演出に憤り、
叔父の東儀正博のことを思い出した。
彼は戦争中に多くの戦友が空で戦死してゆくのを見て
終戦を迎え、
戦後の二十三年間、
操縦席から降りることなく飛び続け、
戦友と同じように空で死んだからだ。
そこで、今日は、
叔父のことで新たに思い出したエピソードを記した上で、
第二次世界大戦を闘ったイギリス人と日本人が、
同じことを言っていたことを確認しておきたい。

作家の石川達三が「人物点描」という随筆の中で、
東儀正博のことを書いた一文の題は
「空に消えた面影」だ。
そのなかで、石川が
名古屋の小牧空港から羽田まで
東儀の飛行機に乗った時の状況が書いてある。
小牧から羽田まで直線に向かうよりも、
石川の希望で中央山脈を越えて向かうことになった。

「・・・その山々に見とれていると、
東儀君はまた正面を指して、
『諏訪湖です』と言った。
何だ、もう諏訪湖かと私は思った。
私はただ漠然と中央山脈を越えるとだけ思っていたが、
東儀君ははっきりと、
御嶽山ー諏訪湖の線を予定して飛んでいた。
諏訪湖の上で翼を振って、直角に右に曲がった。
すると、真っ正面に富士が来た。
その富士が、十秒ごとに大きくなって、
飛行機の全面のガラスに迫ってくる。
三分も飛ぶと、
富士が私の顔の前にビリディングのように立ちはだかり、
私たちはこのまま富士の六合目のどまんなかに
突きささってしまうのではないかという気がした。
あんな大きな、あれほど壮大な富士を見たことはない。
富士が私を圧倒した。
東儀君が左に旋回してくれなかったら、
私はほとんど恐怖に叫ぶところだった。」

この箇所を読んで、
叔父が姉(私の母)に言ったことを思い出した。
戦争末期、
叔父はベテランの腕を買われて度々要人の輸送に当たった。
陸では威張っている陸軍大将連中のなかには、
上空では心配そうに、
対空砲火を避けろとか、あの雲大丈夫かとか、
こまごま操縦席に言ってくる。
そういうときは、
わざと急降下し、急上昇し、
ゲを吐かせふらふらにしておとなしくする。
しかし、山下奉文閣下はさすがだった。
なんの動揺もなく何も言わず泰然自若とされていた、
という話だ。
そして、石川達三を乗せた飛行機を、
彼が叫び声をあげる寸前まで富士山に接近させたのは、
戦時中の要人輸送の癖がでたのかな、と思った。

さて、
日本学術会議などは、
日本は絶対に戦争をしてはならんという。
従って、
日本人学者は日本の軍事研究をしてはならないと決議している。
しかし、
中共やソビエトに委嘱され招聘されて
彼らの国の軍事研究をするのはよいらしい。
ということは、
中共軍が尖閣を攻撃して上陸してきても反撃してはならない。
沖縄に上陸してきても、大阪に上陸してきても、
日本全体を占領しようとしても、
日本は白旗を掲げて占領されろ、ということだ。
これが日本の平和主義だ。
中共やロシアそして北朝鮮までも、ヨダレを流して喜んでいる。
そこで、言っておく。
そういうときは、断固として戦争しろ、と。
NHKや朝日新聞のように、
大東亜戦争を決断したことを断じて間違っていたと言うな、と。
英霊を間違った戦争で戦死した人々だと断じて言うな、と。

次に、イギリス人と日本人が、
それぞれ戦争の決断に当たり語った言葉を記しておく。

・1940年5月、イギリス首相チャーチル、閣議開始前の演説
私が一瞬でも交渉や降伏を考えたとしたら、
諸君の一人ひとりが立ち上がり、
私をこの地位から引きずり下ろすだろう。
私は、そう確信している。
この長い歴史をもつ私たちの島の歴史が、
遂に途絶えるのなら、
それは、われわれ一人ひとりが、
自らの流す血で喉を詰まらせながら、
地に倒れ伏すまで戦ってからのことである。

・1941年12月、帝国海軍軍令部総長永野修身、御前会議後
戦わざれば亡国と政府は判断されたが、
戦うもまた亡国につながるやもしれぬ、
しかし、
戦わずして国滅びた場合は魂まで失った真の亡国である。
しかして、
最後の一兵まで戦うことによってのみ、
死中に活路を見いだしうるであろう。
戦って、よしんば勝たずとも、
護国に徹した日本精神さへ残れば、
われらの子孫は再起するであろう。
そして、
一旦、戦争と決定せられた場合、
我ら軍人は、ただただ、大命一下、
戦いに赴くのみである。


西村眞悟FBより