楠木正成は、必ず甦る。小さい日本兵。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

 本日は、相模湾で護衛艦いずもに乗船して
海上自衛隊観閲式に参加する日であったが、
観閲式が中止となり大阪に留まっている。
そこで、
国際情勢の地殻変動の中で
もはや「戦後体制」では対処し得ない危機に遭遇すること、
この度の台風19号の襲来以上に必至であると見通した上で、
そのような危機において、
日本人が日本人である以上、必ず甦る、
楠木正成の、金剛山麓における足跡を概観してみたい。

 

 楠木正成は、必ず甦る。
それは、令和元年の本年、
御創設百五十年を迎える靖國神社に祀られている英霊が、
全員、楠木正成を知っていたと思えば頷けることだ。
そもそも、
若き十七歳の明治天皇は、
明治二年に靖國神社(招魂社)を御創建される一年前の
「五箇条のご誓文」を発せられてから一ヶ月後に、
「豊太閤・楠木中将の精忠英邁、御追賞仰せ出され候」
太政官府の発した「御沙汰書」で発表されている。
この御指示によって、
元禄五年(1693年)、徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てた、
神戸湊川の楠木正成戦死の地に
湊川神社が創建されることになった。

 

さて、
楠木正成は、無名の男であった。河内の悪党であった。
その正成が、元徳三年(1331年)、
鎌倉幕府に対抗して笠置山に籠城した後醍醐天皇に呼び出され、
「弓矢取る身の面目、何事か是に過ぎん!」
と思い決っし、
「正成一人未だ生きてありと聞こし召され候らはば、
御聖運遂に開かれるべしと思し召され候へ」

と天皇にとてつもないことを言い残し、
千早赤坂に帰り、数百の家の子郎党とともに下赤坂城で挙兵する。
この河内の悪党討伐のために、
数万の鎌倉幕府軍が京都から大阪に入り、南東方向に見たのが、
葛城山の南に聳える大阪の最高峰である金剛山(1125㍍)であった。
以後、1333年の鎌倉幕府滅亡まで、
正成は、この下赤坂から千早城まで続く南北10キロに及ぶの細長い谷に入った
数十万の鎌倉幕府軍を相手に、山岳ゲリラ戦を展開して疲労困憊させ、
膠着状態に持ち込んだ。
天下の鎌倉幕府は、
この辺境の南河内の水越川と千早川の合流地点から標高674㍍の千早城の間の谷で、
疲弊し滅亡したのだ。

この金剛山の麓の水分(みくまり)で
永仁二年(1294年)、楠木正成は生まれた。幼名を多聞と言った。

 

その約百年前の1190年、
北の葛城山麓の弘川寺の草庵で、西行法師(北面の武士佐藤義清)が死んだ。
楠木正成出生伝承地は、二重の堀をめぐらせた屋敷跡であり、
産湯の井戸も近くの伝承地に残っている。

正成は、幼い頃、屋敷から16キロの山道を通り観心寺に行って学んだ。
観心寺の本堂に至る階段の右側に「楠公御学問所 中院」がある。
そして、本堂に向かって右に向かうと左手に後村上天皇陵に登る長い階段があり、
それを通り過ぎてまっすぐ進むと、楠木正成の首塚がある。
その首塚の正面に、幕末の最初の武装蜂起を決行した「天誅組遺跡碑」が建てられている。
観心寺の前の道(現在、国道310号線)を東に登ると峠を越えて奈良の五条に下る。
前日、堺の港に上陸した吉村虎太郎ら天誅組は、五条代官所に討ち入る前に、
楠木正成の首塚に参って一挙に峠を駆け下って代官の首を挙げた。
私の高校時代は、その碑文を読めたが、今は、苔が付着して読めない。

鎌倉幕府を最も苦しめて軍事の天才楠木正成の真骨頂を今に至るまで天下に示した千早城の下方二百㍍ほどの地点に、正成の幼名を学校名にした「多聞小学校」があった。しかし、今は廃校となっている。

 

 この度のラグビーワールドカップにおいて、我が日本チーム日本は、アイルランドとスコットランドを撃破した。UKにおける報道が紹介させているが、皆、日本の勝利に驚いている。そして、その驚きの根底には、体格の小さい日本人が、堂々たる体格の我等によく勝てたという意識があるようだ。
そこで思い出したのは、かつて、大東亜戦争で、香港を守っていたイギリス
イギリス兵の回想だ。
彼は書いていた。上官から、いつも、日本兵は小さいから心配するなと言われていた。
 しかし、いざ戦闘が始まったとき、自分が守る英軍陣地に突撃してきた日本兵は、
とてつもなく強く、自分の目の前で、銃弾を受けて倒れた日本兵は大きかった。我等は、瞬く間に、日本兵に制圧された。

 

 写真は、1900年の北京。義和団事件で欧米各国の外交官家族や民間人、軍族救出の任務を遂行した各国軍兵士の記念写真。
左の英米露仏は、馬鹿デカイ奴を出して、いかにも、俺らが、北京の55日を闘い抜いたとアピールするが如くだ。
しかし、現実に彼等を義和団から守り抜いたのは、一番右に起立している一番小さい日本兵
日本であった。
この度のラグビーでの英国マスコミの論調を知り歴史を回顧した次第。

 

歴史は繰り返す。
これからの東アジアの動乱。
第二、第三の義和団事件、北京の動乱に対して、やはり、地勢学からみても、文明論からみても、我が日本が
東アジア万民保全の要となる任務を遂行する使命を負っている。
但し、朝鮮半島には関与することはひかえるべし。同じ轍を踏めば、ご先祖、英霊に、
申し訳ないではないか!

 

令和元年十月十五日(火)

西村眞悟FBより。