この二枚の写真の一枚は、昭和20年2月23日の午後、硫黄島擂鉢山の上でAP特派員ローゼンソールが撮影した。他の一枚は、アメリカのアーリントン墓地の入り口にある巨大なアメリカ海兵隊記念碑だ。台座だけでも、僕の背丈ほどある。
我が国のWG IPによって奪われた歴史を回復するとは、このはためく星条旗の向こうに日の丸がはためいてるのを見ることだ。確かに、アメリカ陸は、2月23日、星条旗を掲げた。しかし、翌24日、さらに、25日、日本軍将兵は、そこに日章旗を掲げたからだ。
昭和20年2月24日、朝、
硫黄島摺鉢山の頂に翻った日章旗・日の丸について、
その前提の
誇るべき壮絶なる情況をさらに記しておきたい。
硫黄島の戦いは、
2月16日から19日の上陸開始までの
アメリカ軍の猛烈な艦砲射撃で始まり、
3月26日の日本軍の組織的戦闘の終結で終わる。
その戦闘の特色は、
海軍指揮官市丸利之助中将が、
「本戦闘の特色は、敵は地上に在りて、友軍は地下に在り」
と大本営に打電した通りである。
地上部隊の参加兵力は、
日本軍2万2786人 戦死2万1900人 捕虜1023人
アメリカ軍11万人 戦死6821人、負傷1万9217人
2月16日から始まり三日間に及ぶ上陸前のアメリカ軍の艦砲射撃によって、
硫黄島全島が舞い上がる砂塵に覆われ、
島が海底に沈んだのではないかと思われるほどだった。
上陸を前にした海兵隊将兵が、
「俺たちの為に日本兵(ジャップ)を少し生かしておけ」
と言ったという。
しかし、
島の地下に潜った全日本兵は健在だった。
ただ、海軍が摺鉢山に供えた重砲をアメリカ軍艦艇に向かって発射したことで、アメリカ軍は摺鉢山の重砲陣地の所在をり、上陸前、そこに徹底的な砲爆撃を加え、
日本軍は火砲戦力を喪失した。
そして、
19日から上陸を開始したアメリカ軍は、
地下から現れた日本兵との壮烈な戦闘に直面し、
この一日でガダルカナル島の戦いで被った全損害の半数の人員を失った。
次の20日になれば、
アメリカ軍の損害は甚大なものとなり
負傷者は三隻の病院船に収容できないほどに増大した。
日本軍は軍刀と銃剣で一歩も退かず
頑強で壮絶な接近戦闘を行い、
日本兵と白兵戦を行ったアメリカ海兵隊のある大隊は、
総員千名のうち、九百九十名が死傷した。
それ故、アメリカ軍は、
ノルマンディー上陸作戦では、大手術を要する負傷者は、
全負傷者の5%に過ぎなかったが、
硫黄島の戦闘では90%が大手術を必要としていた。
日本軍が6キロの地下通路を掘って立て籠もる摺鉢山は
海と空と陸から猛爆撃を受けた。
ある海兵隊将兵が、上陸した海岸から摺鉢山を見上げたとき、
摺鉢山が沢山の点灯した電球をぶら下げたクリスマスツリーのようだったと書いた。
しかし、地下の日本軍は、
アメリカ兵がよじ登ってくるのを待っていた。
この硫黄島の戦闘状況を知る千葉の海軍第601航空隊は、
第二御楯特別攻撃隊を編制し、
21日に、
硫黄島東海岸に蝟集するアメリカ軍空母の撃沈を目指して、
香取基地から、
零戦12機、艦上攻撃機天山8機、艦上爆撃機彗星12機、
合計32機60名の特攻隊を発進させた。
この特攻隊発進に先行して木更津基地から、
一式陸攻撃機5機が発進した。
硫黄島東海岸に蝟集する敵艦隊に突入する特攻機の意図を隠蔽するために島の西側に電波欺瞞の錫箔を多量に撒いて敵の注意を引きつける為である。
アメリカ軍の前進が頓挫し、
両軍が対峙の状態となっていた夕刻に、
特攻機の爆音が島に近づいてきた。
島の将兵は、
「俺たちの為に死んでくれるのか」
と息を飲んだ。
アメリカ軍艦艇は防空態勢をとり、
必死でものすごい弾幕を張った。
その中を、特攻機が敵艦に迫っていくのが見えた。
空母から火中が上がった。
すると、
敵中に孤立している南海岸の各陣地から
残存将兵が壕から出て軍歌を歌い始めた。
その歌は、
万朶の櫻か襟の色 花は吉野に嵐吹く
大和男と生まれなば 散兵戦の花と散れ・・・!
という軍歌「歩兵の本領」だった。
この軍歌の高唱は、南から次第に北に広がり、
将兵は皆、壕から出て涙を流して歌った。
そして、全島をゆさぶる大合唱となったという。
二万人近くの、
目前の死を覚悟した日本兵の大合唱だった。
第二御楯特別攻撃隊の戦果は
空母ビスマークシー撃沈、
空母サラトガ大破
空母ルンガ・ポイント、貨物船 被弾。
翌22日、
既に北部の司令部との連絡が切断された摺鉢山に対する
アメリカ軍の攻撃は執拗かつ狡猾に続けられた。
アメリカ軍は摺鉢山地区の日本軍の壕の入り口を火炎放射器と砲撃で塞ぎ、削岩機で地下の壕にまで届く穴を開け、
そこから黄燐ガスとガソリンを流し込み火をつけた。
この攻撃によって摺鉢山地下の日本軍は激減していくが、
それでもアメリカ兵は摺鉢山を一㍍前進するごとに日本兵との戦闘を繰り返さねばならなかった。
しかし、23日午前10時20分頃、
40名の海兵隊員が頂上を守る少数の残存日本兵と交戦の後、
頂上に達した。
彼らは、その頂上に6㍍の鉄パイプを見つけて小さな星条旗を付けて立てた。
しかし、それから、
アメリカ軍の想像を絶することが起こる。
二人の日本兵が手榴弾を投げ込み、軍刀をかかげて切り込んできたのだ。
そして、頂上での日本軍のゲリラ攻撃が二時間ほど続いた。
しかし遂に、日本兵の姿が全く途絶えたあと、
AP特派員ローゼンソールが
のこのこ頂上に上がって来て旗を掲げる写真を撮りたいと言った。
そこで、大きな星条旗(5✕8フィート)が用意されて立てられた。
この写真がピューリッツァ賞を受けた
「Raising the Flag on Iwo Jima」だ。
戦場視察に来ていたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、
この写真のお陰で海兵隊は五百年安泰だ(予算を確保できる)と言った。
しかし、
翌24日の朝、
摺鉢山頂上に翻っていたのは「日章旗」だった!
腰を抜かしたアメリカ軍が、
日章旗を引きずり下ろして星条旗を立てた。
しかし、
翌25日の朝、
摺鉢山の頂上に翻っていたのは「日章旗」だった。
そして、
26日の未明、ついに日章旗は見られなかった。
写真には写っていない。
しかし、摺鉢山の上の星条旗と日章旗!
どちらが、
次の歌詞に相応しいであろうか?!
歴史を取り戻すとは、
写真に写っていない日の丸を見ることだ!
Oh!Say can You See,
by the Down‘s early light
What so Proudly we hailed
at the twilight‘s
Last gleaming?・・・
おお、見えるだろうか
夜明けの薄明かりの中、
われわれは誇り高く声高に叫ぶ
苦難のなか、城壁の上に雄々しく翻る
旗○○をわれわれは見た・・・(アメリカ国歌)
令和元年九月十日(火)
西村眞悟FBより。