恩海義喬 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

 

 五月二十七日海軍記念日、対馬沖において我が連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が激突し、我が軍がバルチック艦隊を撃滅した日。海戦海域を見渡す北対馬の殿崎の丘で、毎年行われている慰霊祭に出席した。祭壇は日露戦没将兵の名が刻まれた碑の前。その横には、東郷平八郎連合艦隊司令長官が書いた、恩海義喬、思いやりの海の義は喬しが刻まれた石碑が建つ。沈没したロシア軍艦から脱出して殿崎に漂着した百四十余人のロシア兵を西泊の島民達が、各家に分宿させて介抱したことを讃えた碑だ。

 

 38度線は、既に対馬の沖にある。日本海海戦の奮闘を讃えることは、即ち、我等も英霊と同じように戦うと誓うことだ!我が海軍、頑張ってくれ!西村の背後で手を上げている人は、強風でテントが飛ばないようにポールを掴んでいる。

 

絶好の暴風雨のなかの日露海戦慰霊式典

明治三十八年(一九〇五年)五月二十七日、
我が連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が対馬沖で激突し、
バルチック艦隊は壊滅状態となり、
翌五月二十八日、
沈没したロシアバルチック艦隊の軍艦ウラジミル・モノマフ号から
四隻のボートに乗って脱出した百四十三名のロシア水兵が、
へとへとになって殿崎の眼下の海岸に辿り着いた。
海から這うように上がってきて横たわる水兵達を見た西泊の二人の農婦が、
彼らを殿崎の下の斜面にある泉に案内して湧き出る水を飲ませた。
その水を飲んで事切れた水兵もいたようだ。
だが、命からがら生き延びてきたロシア水兵達にとって、
その泉の水は「命の水」だった。
彼らは、西泊の村民の家々に分宿し、介抱されて元気を取り戻し、
日露講和により全員郷里のロシアに帰っていった。

戦後、
そのことを知って感動した連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥は、
地区住民の敵兵に対する優しいいたわりの行為に対して、
「恩海義喬」・・・めぐみの海の義は喬(たかし)
と揮毫した。
明治四十四年、地区住民は、
東郷平八郎提督の揮毫した「恩海義喬」を刻んだ石碑を殿崎に建てた。

この「恩海義喬」の石碑も、
ロシア水兵の命の水が湧き出た泉も
今も殿崎にある。

この対馬沖(日本海)海戦から百年経った
平成十七年(二〇〇五年)五月二十七日、
殿崎の丘で、
対馬沖海戦百周年戦没日露将兵追悼慰霊祭が行われた。
この式典は、
地元比田勝の武末裕雄氏ら対馬の有志同志の発案と実行力によって開催された。
以来、今年に至るまで毎年、
五月二十七日の「海軍記念日」に殿崎の丘で実施されている。
対馬に駐屯する陸海空自衛隊司令と幹部も参列するに至っている。
私は、初回から本年まで毎年欠かさず
五月二十七日には、対馬の殿崎の丘で式典に参列している。

その中で、一番感銘深かった式典を挙げておく。
それは、一昨年の式典だ。
この時、
対馬市の一職員が言い出した。
「海ゆかば、などという軍国主義の歌を歌わないでおこう」と。
武末氏曰く、

「海ゆかば、を歌わない式典などありえない」
対馬市答える。
「海ゆかばという軍国主義の歌を歌う団体と一緒にできない。
対馬市は別の日にする」

武末氏からからと笑って答える。
「勝手にしろ、
俺たちは五月二十七日の海軍記念日に実施して、
海ゆかば、を歌う。」

この間、
現地の武末氏と小生は同じ思い。
小生は、
勇躍して五月二十七日に殿崎の丘に参り、
数十名の同志と共に、
海戦海域に向かって
人生で一番感動的な「海ゆかば」を歌ったのだ。
即ち、
霊の世界における目に見えない最大の式典となった。

この次の五月二十七日、つまり、昨年。
式典の参加者は急増していて、
陸海空自衛隊は部隊が殿崎に集結し、
対馬市の市長もメッセージをよこし
市幹部も我らと一緒に「海ゆかば」を歌っていた。

そして、この度の五月二十七日、
我が国を取り巻く内外の厳しい状況にふさわしい
台風クラスの暴風雨が吹き付け、
テントが風で浮き上がるので、
主催者がテントのポールを握ってぶら下がりテントが飛ばされるのを防ぐなかで、
日露海戦の慰霊式典が行われた。

私と武末さんは、先の写真にあるとおり
対馬基地の海上自衛隊司令と士官とともに写真に収まって、
その後二人とも、
絶好の天候だー、
と一致して、叫んでから別れた。

その日は、空の便が欠航して対馬から出られず、
その晩は幸い風雨の中の宴会となって
翌二十八日の午後に堺に帰った。

 

 

令和元年五月二十八日(火)

西村眞悟FBより。

 

 

 

https://youtu.be/OXN0H41p74I

海ゆかば<準国歌>

詩:大伴家持 曲:信時 潔

原歌

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)

 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み