猪苗代から飯舘村そして東京 ”イーグル日記⑲” | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 


 

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 六月二日に大阪から福島空港に飛び、そこから車で北磐梯を経て猪苗代町に入り、
その夕方、猪苗代湖と右手に磐梯山を一望するホテルで、
田母神俊雄元航空幕僚長とともに、
表題に「支那討つべし」と掲げる演説会の弁士として語り、
次に、夜は、参加者と懇親会で賑やかに国家を語り合い、
翌日の三日は、ホテルのバイキング式朝食時に、
田母神閣下や宿泊の演説会参加者らと一時間ほど昨夜の続きで語り合い、
別れて、猪苗代から飯舘村に向かい、
飯舘村内を見て回り、村役場を訪れ、
郷社の綿津見神社に参って多田宮司に挨拶して帰路につき、夜、大阪に戻った。

私は、会津そして奥羽越列藩同盟と縁があるのではないかと思える。
まず、学生時代、京都の大文字山麓の学生寮にいた私は、
一週間のうち数度は、永観堂の南の「会津藩士の墓地」と黒谷を散歩していた。
幕末、京都守護職となった会津藩主松平容保は、
黒谷に本陣を置き、京都の治安と御所を護って京都守護職の務めを果たした。
黒谷の墓に眠る会津藩士たちは、
その職務を果たすなかで死亡した遙か会津から来た武士たちである。
禁門の変では、長州藩は御所に大砲を打ち込んで御所に向かって攻めてきたが、
会津は御所を護って長州を撃退した。
この禁門の変で戦死した会津と長州の武士たちは、
会津は黒谷に葬られ、
長州は黒谷の南東三キロの東山霊山に葬られた。
天皇のおられる御所を護った者と、
御所に大砲をぶち込んだ者と、
どちらが讃えられるべきか。
私は学生時代から会津武士を讃えた。
その学生時代の昭和四十年代前半のころから今に至っても、
会津藩士の墓は訪れる人は少なくひっそりとして苔生している。
ところが、長州藩士の墓のある霊山は、
今や観光地になっていて墓地に入る観光客から入山料金をとっている。
司馬遼太郎の功績、大である、に過ぎない。
しかし、再び幕末のように、
我が国を取り巻く風雲が急を告げ、
我が国家存立のために、戦後からの脱却が喫緊の国家的課題となった今、
甦るべきは、会津士魂である。

そして、平成二十三年の東日本大震災から三ヶ月後の六月に、
猪苗代の高士 医師の野崎 豊先生から、
猪苗代に来て国家を語れ、との依頼を受け初めて会津藩を訪れたのだ。
その時のホテルには、
福島第一原発近くの双葉町から八百名の人々が避難して住まわれていた。
その頃、菅直人内閣が、典型的な左翼手法で、福島第一原発を「悪」と決めつけ、
「反原子力発電」を掲げて支持拡大を狙い始めた頃であった。
私は、その猪苗代の会場で、
原子力発電は、国家にとって必要であると主張した。
すると、「双葉町避難民自治会代表」と語る初老の方が「発言あり」と挙手をされ、
次のように語られた。
 
 我々は、第一原発の放射能の為に、
 住む家から退去させられてここに来ているのだ。
 この我々の前で、
 原子力発電が日本に必要だと、
 言い切られたことに敬意を表する。
 我々も、原子力発電が日本に必要だと思う。
 だから町に原子力発電所が建設されることに納得したのだ。
 それを何か!
 マスコミは我々がカネを貰えるから原発が建ったようなことを言っている。
 極めて不本意である。

私こそ、この方に敬意を表した。
そして、その後、懇親会の席で、この方に質問した。
 数百名の皆さんのなかで、
 放射能による健康障害を訴えている人がおられますか。
すると、
 一人もおりません。
 むしろ、皆、元気になっています、
 私の体も元気になったことに、女房も驚いています、
と答えられた。

(東京に向かうために中断、以上、四日に記す)

六月二日の夕刻、猪苗代のホテルで会った田母神閣下は、
五月二十二日の東京地裁の判決を不服として高裁に控訴してから来られた。
それは、よかった、と私は言った。
このような公訴権濫用に近い政治的意図のある捜査を受け継いだ裁判に於いて、
地裁の「事実認定」が誤っておれば、
控訴するのが当然である。

猪苗代の野崎 豊先生は、
毎年この時期に、田母神閣下と私を招いて、
「支那討つべし」との題で演説会を開催されてる。
また、ここは、田母神閣下の故郷である郡山から近いので
郡山の田母神小学校や高校の同級生も来られる。
しかし、昨年は、閣下が東京拘置所のなかにいたので私だけだった。
それで、本年は、閣下が郷里の皆さんへのご無沙汰を回復するために
出所してから振りかえれば笑いをさそう拘置所内での生活などから始めて、
パレスチナから北朝鮮問題、
さらに国産ジェット戦闘機の開発問題まで、
縦横に話されてから、懇親会となった。

私は、朝鮮半島情勢だけに関心が集中している我が国の視野狭窄と、
米中そして露への「他人任せ」の意識に警報を鳴らした。
即ち、歴史上、朝鮮半島問題の背後にいるのは、
シナ、ロシア、そして、やはりアメリカである。
十九世紀後半から二十世紀半ばまで、我が国はこの三国と順次戦った。
朝鮮半島が日清・日露の戦争をつくり出した。
そこで、忘れてはならないのは、次の警句と密約である。

ロシア人は、約束を破るために約束をする。
シナ人は、そもそも約束は守らねばならないとは思っていない。

明治二十九年(一八九六年)、日清戦争の翌年、
ロシアと清国(李鴻章)は、対日攻守同盟という密約を結ぶ。
その内容は、
日本が清国を攻めればロシアが助ける。
ロシアが多額の賄賂を李鴻章に渡し、
清国(李鴻章)は、満州をロシアに売り渡す。
我が国は、この密約を知らず、
この密約に基づいて満州に雪崩れ込んできたロシアを
日本は血を流して満州から追い出し、
清国は、売り渡した満州を日本のお陰でただで回復した。
巨額賄賂をロシアからもらった李鴻章の子孫は、
今は名を変えてアメリカで大富豪として生きている。

現在も、朝鮮半島の背後にシナとロシアがいる。
そして、
シナは尖閣を奪いにきており南シナ海に軍事基地を建設している。
ロシアは国後と択捉にミサイル基地を建設した。
その上で、シナとロシアの海軍は、
昨年の六月、南シナ海に於いて合同で軍事演習をした。
また昨年度の我が国航空自衛隊機のスクランブル発進数は、
過去最多の一一六八回であり、
その内、対シナ八五一回、対ロシア三〇一回。
シナ軍機は、一日に二~三回、
ロシア軍機は一日一回、
我が国領空に接近している。
北朝鮮の豚のように肥って笑っている三代目の
打ち上げるミサイルだけに関心を集中していてはならない。
背後にいる既に核弾頭ミサイルを実戦配備している
シナとロシアが真の脅威である。
さらにトランプのアメリカは、
我が国か、シナとロシアか、何れに転ぶか分からない。
ここにおいて、我が国は、
覚悟を決めて独自の国防力を増強しなければならない。

以上の話の後に、懇親会に入った。
その懇親会の最後は、
私の希望で、田母神閣下の歌う「航空自衛隊の歌」となった。
知る人ぞ知る、「高校三年生」のメロディーで、
  あーあー、ああーあー、航空自衛隊ぃ~ぃ、
  僕ら、これは、これでも、これは、これ!
という歌である。
一年に一一六八回のスクランブル発進(つまり、実戦)をこなしながら、
この歌を歌い合う自衛隊!
やっぱり明るく頼もしい組織だ。

翌日三日、既に記したように飯舘村を訪れた。
平成二十三年四月三十日に、飯舘村を初めて訪れてから毎年訪れている。
その時のことは平成二十三年五月一日付け時事通信(627号)「飯舘村を救え」をご覧頂きたい。
この初めての訪問時の飯舘村の放射線量値は、
細川牧場3・5~6・2マイクロシーベルト
飯舘村役場0・4マイクロシーベルト
この時は、放射線治療専門のドクターも一緒だった。
このドクターに「30分ほどここに立って深呼吸してください」と言われて、
私と同行の田母神閣下は細川牧場の馬を眺めながら立っていた。
そして、三十分ほどしてからお互い見合って、
私が「なんか、元気になったように思うなあ」と言うと、
閣下が、にやりと笑い、「そう、そう、その通り」と言った。
よって、先に書いた二ヶ月後の猪苗代のホテルでの
双葉町避難民自治会会長の、
「元気になった」との説明に
まさに納得することができたのだ。

この度の飯舘村役場前は、0.26マイクロシーベルトだった。
この放射線量は、今私がいる大阪の堺と同じだ。
飯舘村は、大震災直後から今まで、一貫して安全であった。
しかし、現在に於いても、
附近に隣接する他の村や町の田では田植えが行われているのに、
飯舘村の田には草が生え水も入れられていない。
さらに広大な田が太陽発電のパネルに掩われている光景を見ると心が痛んだ。
豊かな山野と広大な田園をもつ飯舘村から
村民を追い出して疲弊させた菅直人内閣の罪、万死に値する。
帰路、郷社の綿津身神社に参拝し
大災害以来、村民が去ってからも、一貫して唯一人留まって
飯舘村を離れなかった
多田 宏宮司にお会いすることができた。
住民が去った後には、
健康そうに肥った猪と猿が増えていたと、以前、宮司から聞いていたので、
宮司に、猿や猪のことを尋ねると、
猿は人が多くなったので姿を消したが、
猪は相変わらず我が物顔に歩いていると答えられた。

三日深夜に帰宅して、
四日は東京の「新しい歴史教科書をつくる会」の懇親会に出席し、深夜また帰宅した。
その懇親会で、私は次の通り挨拶した。
 
 我が国の「歴史教科書」の最大の嘘は何か。
 それは、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」を
 「日本人が書いた」と記していることだ。
 日本人が書いたのではない、GHQのアメリカ人が書いたのではないか。
 国家の根本規範である憲法を誰が書いたのか、
 この要点において
 「嘘」を子ども達に教える国に未来があろうか。
 「日本国憲法」は日本人ではなく
 アメリカ人が書いたという「真実」を
 子ども達に教える歴史教科書をつくろうではないか。
 そうすれば、子ども達の方が、
 その教えられた瞬間に、
 この「憲法」は無効だという結論に達するであろう。
 そうなれば、「無効」なものを「改正」して、どうする、ということになる。
 その時、我が国は、「日本」を取り戻し、戦後から脱却する。
 「憲法九条」は「無効」だ。
 九条をそのままにして、
 そこに「自衛隊」を加えれば「改正」になるのか。
 では、問う。
 九条には「交戦権はこれを認めない」とある。
 交戦権を認められない自衛隊が、どうして自衛権を行使するのか。
 
                            以上、

 

平成29年6月5日(月)

西村眞悟の時事通信より。

 

 

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飯舘村を救え

 

 昨日四月三十日、東北の飯舘村にいた。そして、本日朝一番で堺に帰った。
 特定失踪者調査会、拓殖大学教授の荒木和博さんに、菅内閣による飯舘村への、「今回の避難指示、制限区域の設定などは、いたずらに住民の恐怖心を煽り、共同体を破壊しようとするものであり、また裏から反原発運動を煽っているとも言えます」
 よって、こういうときにこそ飯舘村に行きましょうという呼びかけに大喜びで賛同し、同村に入った。
 参加メンバーは、福井義高青山学院大学教授、稻恭宏医学博士、田母神俊雄前航空幕僚長ら九名。
 荒木、福井両氏とは、民社党以来のご縁。田母神前航空幕僚長は、郡山出身で愛する郷里の村のことは当然ほっとけない。しかも、ミサイルの専門家であるから核攻撃の影響すなわち放射能については詳しい。よって、参加。
 福井さんは、青山学院で経営学を教えているが、何故か、放射能に強く、低線量率放射線は、健康にほとんど影響がないと言う。私も同じ。
 そして、本集団の中心の稻博士は、病理学・免疫学の専門家で、そもそも低線量率放射線による治療の世界的パイオニアである。その稻博士は、放射線のうち低線量率放射線は、人体に害を与えるどころか、病気の治療に用いれば劇的な効果を上げる、健康体の人は若返りますます健康になると、主張されている。
 そして、飯舘村の放射能は、稻博士の言われるかえって体によい低線率量放射線なのだ。
 
 しかるに、菅内閣は、震災後一ヶ月以上経ってから、飯舘村村長には何の連絡もせず、村を計画的避難区域にしたと発表し、村民六千名の村外への移住を、移住先も示さず決定した。
 菅内閣は、自ら責任を持って六千名の村民の移住を実施しようとしているのではなく、移住先は勝手に探して村から出て行けと指示したのである。つまり、責任は村に押しつけたのだ。
 仮に、本当に村民が村にいては危険ならば、一刻も早く村から村民が出れるように、菅内閣は、村民の今夜寝る場所を確保して、かつて中曽根内閣が、噴火が激しくなった三宅島に自衛艦を派遣して島民を避難させたように、菅内閣も自衛隊車両を動員してでも、六千名の飯舘村民の移住を指示すべきではないか。
 それを、何かー!
 六千名の村民に関して、行き先は勝手に決めて村から出て行って、と菅内閣は通告しているのだ。
 村民にとっては、明日どこで寝るのかも分からず、生活の手段を失い共同体が奪われる措置である。
 命に関わる緊急の必要性があれば、それを忍ぶことを拒否する村民ではないが、菅内閣のこの決定に、忍ばねばならない何なる必要性と緊急性があるのか。
 この菅内閣の避難措置は、かつての暴力的地上げ屋もしなかった。必ず移転先を用意するか、移転費用を用意した。また、アメリカ合衆国政府が、十九世紀に武器を持った騎兵隊が部落を取り囲んで、インディアンを居住地から強制的に立ち退かせたときも彼らの行き先は用意していた。
 
 菅内閣のやっていること、人道上も許せん。しかも、その措置を裏付ける科学的合理性もない。
 
 そして、四月三十日、飯舘村に入った。
 私は、放射線防御学、放射線治療のことは知らない。
 しかし、稻博士は、そのパイオニアである。
 従って、私は、稻博士の指示に従って、飯舘村のあの場所、この場所に立ち、深呼吸し、空気を吸い、低線量率放射線を浴びたのである。即ち、病人ではないが、一行は、稻博士による「低線量率放射線治療」を受けたのである。そして、暗くなってから飯舘村を離れた。
 して、その効果は、自覚できたのか。自覚できた。肩のこりがとれたようで、目がすっきりし、体が軽くなった。これが、低線量率放射線の効果かどうかは、また確かめに行くが、飯舘村にいるとき、体が軽く疲れがとれたことは確かだ。良い温泉、そうラドン(放射能)温泉に入ったときと同じだが、それよりものぼせない分だけ爽快だ。

 飯舘村に入ったときの放射線量、1マイクロシーベルト毎時、
 色つやのよい牛のいる空気のすばらしい細川牧場では、3・5マイクロシーベルト毎時、箇所によっては6・2マイクロシーベルト毎時。
 緊急時の一般国民が受ける上限としてICRP(国際放射線防御委員会)が認めた線量は、100ミリシーベルト年間、約10マイクロシーベルト毎時であるので、菅内閣の避難指示は、全く科学的根拠のない村民を流民として苦しめる暴挙である。

 明治十一年春、横浜に来たイギリス女性イザベラ・バードは、日光から東北を旅して「日本奥地紀行」(原題、「日本の未踏の地」)を書いた。その中で、東北地方の田園の美しさを讃え、これは、農業ではなく庭園だと驚いている。
 私も、イザベラ・バードと同じように、山桜の咲く落葉広葉樹林の山に囲まれた飯舘村の美しさに見とれた。
 夕方会った飯舘村の菅野典雄村長が言っていた。
 養護老人ホームで生活している老人に、立ち退けとは言えない。私は避難命令は出していない。
 内閣に、逃げるのではなく、別のやり方を考えて欲しいと頼んだ。
 村民は、また帰ってこれるように願っている。従って、村に帰れる基準は何か教えて欲しいと官邸で言ったが、政府は明確に答えない。
 私には、毎日次のようなメールが届く。
「殺人者、お前辞めろ」
「村民をモルモットにするな」
 すると、稻博士も言った、「全く同じメールが私にも届きます」

 菅内閣は、反原発運動をしている。
 菅野村長や稻博士に届く、同じ非難のメールは、菅反原発内閣をサポートする為に、反原発組織が邪魔者を攻撃するために組織的に流しているのだろう。左翼の常套手段である。

 かつて隣県の栃木の田中正造翁は、足尾銅山の鉱毒で廃村に追い込まれる谷中村を救うために立ち上がった。田中正造翁は谷中村を救うことは日本を救うことだと思ったからだ。
 そして、私は言う。
 廃村に追い込まれている飯舘村を救おう!
 飯舘村を救うことは日本を救うことだ、
 日本を再興させることだ。

 

平成23年5月1日(日)

西村眞悟の時事通信より。