平成27年6月5日(金)
二十六年前の一九八九年(平成元年)六月四日、
北京の天安門に集まって民主化を求めた学生を中心とした群衆に対して、
人民解放軍が一斉射撃を開始し、彼らを戦車で踏み殺した。
自動小銃を水平に構えて群衆に向かって発砲した人民解放軍兵士達は、覚醒剤を飲んでいたともいわれている。
この前年の一九八八年(昭和六十三年)、
中国では一月から大規模な列車事故が続発して多くの死者がでていた。
また列車事故ではないが、列車に轢き殺された犠牲者もでていた。
彼らは鉄道関係の労働者であった。
彼らがレールに座り込んで当局へ不満を訴えていたところへ、
列車が停止せずに進んできて彼らを轢き殺したのだった。
そして、三月二十四日、
高知学芸高校の修学旅行生を乗せた列車が、上海郊外で他の列車と正面衝突して
生徒二十七名と教員一名の二十八名が死亡し生徒三十六名が負傷した。
私は、この列車事故の調査のために同僚弁護士とともに上海郊外の事故現場を訪れた。
生徒達が亡くなった事故現場で、線香を手向けようと火をつけていると、
附近の工場で働いている泥だらけの人達が出てきて、我々の思いを察したのであろう、
生徒達が乗っていた列車が止まっていた場所を指さして、その下の地面に手で線香を立てる穴を掘ってくれた。
私は、彼らに礼を言って、一人に煙草をわたし、火をつけてともに吸って、事故の様子を聞こうとした。
その時、私たちを尾行してきた肩に赤い肩章をつけた公安関係者が近づいてきて、
犬を追い払うように手を振った。
すると、線香を立ててともに祈ってくれた彼らは、クモの子を散らすように我々から離れた。
何故、このようなグロテスクな共産党独裁の国を修学旅行先に選んで、
未来のある希望に燃える生徒達を送り込んだのか、と痛恨の思いがした。
年が改まった一月七日の未明、昭和天皇が崩御された。
私は、その報に、高知のホテルで接した。
そして、その年の六月四日、天安門事件が勃発した。
私にとって、天安門事件は、中国における前年の連続列車事故と痛恨の高知学芸高校上海列車事故、
そして、かいま見た共産党独裁下のグロテスクな社会状況と不可分に結びついている。
さて、あれから二十六年の歳月は、中国に何をもたらしたのか。
外見は驚くほどの激変である。
しかしそれは、十九世紀の「繁栄するヨーロッパ」と「暗黒大陸のアフリカ」が、
ともに共産党独裁下に「圧縮封印」されたような異様な姿を呈している。
つまり、社会内矛盾は、ますます増大している。
同時に、共産党内の権力闘争は何ら変わらず幹部の汚職と腐敗はますます進行している。
また人民解放軍の軍閥化と財閥化と幹部の汚職も進行をとどめ得ない。
さらに、暗黒大陸に封じ込められた民衆の不満はますます圧縮熱を高めてきている。
そして、伝えられるところによると、
現主席の習近平と前主席の江沢民との権力闘争は、血みどろの状況を呈してきているという。
習近平は、江沢民の根城である上海をターゲットにした共産党幹部や行政の幹部そして彼らのファミリーに対して、徹底した汚職撲滅に乗り出し、江沢民の息の根を止める闘争を開始したようだ。
実は、天安門事件は、二回ある。
第一回は、一九七六年(昭和五十一年)四月五日で、天安門広場で民衆と警察が衝突した。
第二回が、一九八九年(平成元年)の六月四日だ。民衆と軍隊の衝突で、軍隊が民衆を殺戮した。
そして、第三回が起こるだろう。起こる。 支那が、支那である限り、起こる。
それは、第二回目の民衆対軍隊の衝突から、さらに軍隊と軍隊の衝突になりうる。つまり、内戦だ。
中国共産党は、コミンテルンの「内乱から戦争へ、戦争から革命へ」
という方針に従って一九四九年、天安門で政権を握った旨宣言した。
こんどは、それが逆回転する。
即ち、第三回天安門事件で、内乱から崩壊へというプロセスが始動し始めるだろう。
その時、我が国は如何に対処するべきか。
断じて救援など考えてはならない。
一九〇〇年の義和団の乱以来の歴史が繰り返されるだけである。
千百余年前の教訓に従うべきである。
即ち、西暦八九四年、菅原道真は、
唐末期の人肉相食らうグロテスクな混乱と一線を画する為に、遣唐使を廃止して支那と断絶した。
我が国は、支那の混乱と断絶することによって、
文化的にも政治的にも独自性を発揮し、自国民の安泰を確保して人類に偉大な貢献をなし得る。
これが歴史の教訓である。
西村眞悟の時事通信より。
北京の天安門に集まって民主化を求めた学生を中心とした群衆に対して、
人民解放軍が一斉射撃を開始し、彼らを戦車で踏み殺した。
自動小銃を水平に構えて群衆に向かって発砲した人民解放軍兵士達は、覚醒剤を飲んでいたともいわれている。
この前年の一九八八年(昭和六十三年)、
中国では一月から大規模な列車事故が続発して多くの死者がでていた。
また列車事故ではないが、列車に轢き殺された犠牲者もでていた。
彼らは鉄道関係の労働者であった。
彼らがレールに座り込んで当局へ不満を訴えていたところへ、
列車が停止せずに進んできて彼らを轢き殺したのだった。
そして、三月二十四日、
高知学芸高校の修学旅行生を乗せた列車が、上海郊外で他の列車と正面衝突して
生徒二十七名と教員一名の二十八名が死亡し生徒三十六名が負傷した。
私は、この列車事故の調査のために同僚弁護士とともに上海郊外の事故現場を訪れた。
生徒達が亡くなった事故現場で、線香を手向けようと火をつけていると、
附近の工場で働いている泥だらけの人達が出てきて、我々の思いを察したのであろう、
生徒達が乗っていた列車が止まっていた場所を指さして、その下の地面に手で線香を立てる穴を掘ってくれた。
私は、彼らに礼を言って、一人に煙草をわたし、火をつけてともに吸って、事故の様子を聞こうとした。
その時、私たちを尾行してきた肩に赤い肩章をつけた公安関係者が近づいてきて、
犬を追い払うように手を振った。
すると、線香を立ててともに祈ってくれた彼らは、クモの子を散らすように我々から離れた。
何故、このようなグロテスクな共産党独裁の国を修学旅行先に選んで、
未来のある希望に燃える生徒達を送り込んだのか、と痛恨の思いがした。
年が改まった一月七日の未明、昭和天皇が崩御された。
私は、その報に、高知のホテルで接した。
そして、その年の六月四日、天安門事件が勃発した。
私にとって、天安門事件は、中国における前年の連続列車事故と痛恨の高知学芸高校上海列車事故、
そして、かいま見た共産党独裁下のグロテスクな社会状況と不可分に結びついている。
さて、あれから二十六年の歳月は、中国に何をもたらしたのか。
外見は驚くほどの激変である。
しかしそれは、十九世紀の「繁栄するヨーロッパ」と「暗黒大陸のアフリカ」が、
ともに共産党独裁下に「圧縮封印」されたような異様な姿を呈している。
つまり、社会内矛盾は、ますます増大している。
同時に、共産党内の権力闘争は何ら変わらず幹部の汚職と腐敗はますます進行している。
また人民解放軍の軍閥化と財閥化と幹部の汚職も進行をとどめ得ない。
さらに、暗黒大陸に封じ込められた民衆の不満はますます圧縮熱を高めてきている。
そして、伝えられるところによると、
現主席の習近平と前主席の江沢民との権力闘争は、血みどろの状況を呈してきているという。
習近平は、江沢民の根城である上海をターゲットにした共産党幹部や行政の幹部そして彼らのファミリーに対して、徹底した汚職撲滅に乗り出し、江沢民の息の根を止める闘争を開始したようだ。
実は、天安門事件は、二回ある。
第一回は、一九七六年(昭和五十一年)四月五日で、天安門広場で民衆と警察が衝突した。
第二回が、一九八九年(平成元年)の六月四日だ。民衆と軍隊の衝突で、軍隊が民衆を殺戮した。
そして、第三回が起こるだろう。起こる。 支那が、支那である限り、起こる。
それは、第二回目の民衆対軍隊の衝突から、さらに軍隊と軍隊の衝突になりうる。つまり、内戦だ。
中国共産党は、コミンテルンの「内乱から戦争へ、戦争から革命へ」
という方針に従って一九四九年、天安門で政権を握った旨宣言した。
こんどは、それが逆回転する。
即ち、第三回天安門事件で、内乱から崩壊へというプロセスが始動し始めるだろう。
その時、我が国は如何に対処するべきか。
断じて救援など考えてはならない。
一九〇〇年の義和団の乱以来の歴史が繰り返されるだけである。
千百余年前の教訓に従うべきである。
即ち、西暦八九四年、菅原道真は、
唐末期の人肉相食らうグロテスクな混乱と一線を画する為に、遣唐使を廃止して支那と断絶した。
我が国は、支那の混乱と断絶することによって、
文化的にも政治的にも独自性を発揮し、自国民の安泰を確保して人類に偉大な貢献をなし得る。
これが歴史の教訓である。
西村眞悟の時事通信より。