平成27年3月20日(金)
中共では「全人代」という「全国の人民の代表者の大会」が開かれている。
しかし、中共に「人民の代表」など、あろうか。
これほど大規模な「ウソ代」を真面目に(ぬけぬけと)しているマインドなら
もうじき「世人代」という「世界の人民の代表者の大会」を、勝手に開くのではないか。
その時の、日本人民の代表は、もちろん、鳩山由起夫君だろう。
とはいえ、昨日、石平さんが産経新聞で、
「全人代」の最中の習近平主席が「四面楚歌」にあると論評していた。
何故、四面楚歌にあるかというと、習さんは共産党と政府幹部の汚職を追放しようとしているのだが、
中共では、汚職を追放したから経済が成長しないという論理が説得力をもっていて、習批判が大勢を占めつつあるらしい。
汚職を禁じられた官僚組織が、「勤労意欲」を無くしているのだ。
しかし、言っておくが、汚職ができるから働くといのは、そのそも「勤労意欲」ではない。
また、朝鮮では、何が行われているのか知らないが、昨日、平成九年以来、共に北朝鮮に拉致された同胞の救出運動に携わってきた西岡力さんが「正論大賞」大阪講演会で
「韓国は従北派が増加して体制危機にあり、北朝鮮も財政危機で餓死者がでており体制危機にある」と話した。
南は、金(かね)はあるが意識は北朝鮮に従属して体制は危機に向かい、
北は、金(キン)はあるが金(かね)がないので危機的である。
訳がわからんが、彼らの「悲願」である南北の統一、
つまり、北も南も「李氏朝鮮」もしくは「金氏朝鮮」への道に入っているのか。
以上、支那と朝鮮について、ここ数日間に新聞紙面に現れた「現象」である。
そこで言いたいのは、
この「現象」を異常だと思ってはならない、
「正常」もしくは「本来の姿」だと理解すべきだということである。
つまり、現在の東アジアの図式は、
我が国は、「日本を取り戻す」
そして、中共は「支那を取り戻す」、
韓国は「朝鮮を取り戻す」
この共通の過程に入りつつあるのだろう。
違うのは、
我が国は日本を取り戻して再興し、
他の二者は、それぞれ支那および朝鮮に戻って衰頽する。
これを自業自得という。
韓国の我が国の陸軍士官学校で教育を受けた朴大統領が「正統」なのではない、
彼は、日本で教育された「特異」な大統領であり、今の娘の朴が「正統」なのだ。
この支那と朝鮮の
「正常と異常」もしくは「正統と異端」の区別を見誤ると、我が国は再び国策を誤る。
よって、我が国は、かつての痛恨の幣原協調外交のように、
支那の「正常」を「異常」と錯覚して、「理解と同情」に基づいて対中方針を決定してはならない。
我が国には、次ぎに紹介するように正統な「支那観」がある。
これからは、これを思い起し、対中姿勢を決定するべきであろう。
また、同時に、朝鮮は、
この支那に千年以上追随して同化しようとしてきたことをゆめゆめ忘れてはならない。
1、明治十二年の福島安正中尉の清国偵察報告「隣邦兵備略」と同時期の福沢諭吉の「脱亜論」
2、大正元年の内田良平の「支那観」
「隣邦兵備略」より、
清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行である。これが百悪の根源をなしている。しかし清国人はそれを少しも反省していない。上は皇帝(共産党主席)、大臣より、下は一兵卒(人民解放軍二等兵)まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは、清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は、日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。
「脱亜論」・・・公知の内容故、省略する。
「支那観」より、
堂々たる政治家を自任する者(習近平、温家宝、胡錦涛、江沢民と顔つきを思い出されよ)にして、
美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、
彼らの心情が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。
支那人は食人族である。「水滸伝」にはこう書いている。
「ももから肉を二切れ削ぎ落とし、水で洗ってから、炙っては食い、炙っては食いして満腹になった。」
(魯迅の小説「狂人日記」も支那の食人習慣を扱っている)
支那人は、詐欺を義務とさえ考えているようである(碧眼録)。
支那では各社会を通じ、賄賂を罪悪とは見なさない。しかもおうぎょうに儒教の教典といったところで、一口で言えば、賄賂を使う方法を教えるものと断じていいだろう。
以上の通りである。
従って、昭和二年に蒋介石の指揮する北伐軍が、
南京城内に雪崩れ込んで日本を含む欧米の公使館の略奪放火殺人を始めた際、
幣原喜重郎外相が、福島安正、福沢諭吉そして内田良平の支那観に基づいて、
二十五年前の義和団事件の時と同様に、
米英と協調して支那に断固として対処しておれば、
この時点で国策を誤らなかった。
痛恨事である。
よって、この痛恨の教訓こそ、近い将来に、断じて生かさねばならない。
西村眞悟の時事通信より。
しかし、中共に「人民の代表」など、あろうか。
これほど大規模な「ウソ代」を真面目に(ぬけぬけと)しているマインドなら
もうじき「世人代」という「世界の人民の代表者の大会」を、勝手に開くのではないか。
その時の、日本人民の代表は、もちろん、鳩山由起夫君だろう。
とはいえ、昨日、石平さんが産経新聞で、
「全人代」の最中の習近平主席が「四面楚歌」にあると論評していた。
何故、四面楚歌にあるかというと、習さんは共産党と政府幹部の汚職を追放しようとしているのだが、
中共では、汚職を追放したから経済が成長しないという論理が説得力をもっていて、習批判が大勢を占めつつあるらしい。
汚職を禁じられた官僚組織が、「勤労意欲」を無くしているのだ。
しかし、言っておくが、汚職ができるから働くといのは、そのそも「勤労意欲」ではない。
また、朝鮮では、何が行われているのか知らないが、昨日、平成九年以来、共に北朝鮮に拉致された同胞の救出運動に携わってきた西岡力さんが「正論大賞」大阪講演会で
「韓国は従北派が増加して体制危機にあり、北朝鮮も財政危機で餓死者がでており体制危機にある」と話した。
南は、金(かね)はあるが意識は北朝鮮に従属して体制は危機に向かい、
北は、金(キン)はあるが金(かね)がないので危機的である。
訳がわからんが、彼らの「悲願」である南北の統一、
つまり、北も南も「李氏朝鮮」もしくは「金氏朝鮮」への道に入っているのか。
以上、支那と朝鮮について、ここ数日間に新聞紙面に現れた「現象」である。
そこで言いたいのは、
この「現象」を異常だと思ってはならない、
「正常」もしくは「本来の姿」だと理解すべきだということである。
つまり、現在の東アジアの図式は、
我が国は、「日本を取り戻す」
そして、中共は「支那を取り戻す」、
韓国は「朝鮮を取り戻す」
この共通の過程に入りつつあるのだろう。
違うのは、
我が国は日本を取り戻して再興し、
他の二者は、それぞれ支那および朝鮮に戻って衰頽する。
これを自業自得という。
韓国の我が国の陸軍士官学校で教育を受けた朴大統領が「正統」なのではない、
彼は、日本で教育された「特異」な大統領であり、今の娘の朴が「正統」なのだ。
この支那と朝鮮の
「正常と異常」もしくは「正統と異端」の区別を見誤ると、我が国は再び国策を誤る。
よって、我が国は、かつての痛恨の幣原協調外交のように、
支那の「正常」を「異常」と錯覚して、「理解と同情」に基づいて対中方針を決定してはならない。
我が国には、次ぎに紹介するように正統な「支那観」がある。
これからは、これを思い起し、対中姿勢を決定するべきであろう。
また、同時に、朝鮮は、
この支那に千年以上追随して同化しようとしてきたことをゆめゆめ忘れてはならない。
1、明治十二年の福島安正中尉の清国偵察報告「隣邦兵備略」と同時期の福沢諭吉の「脱亜論」
2、大正元年の内田良平の「支那観」
「隣邦兵備略」より、
清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行である。これが百悪の根源をなしている。しかし清国人はそれを少しも反省していない。上は皇帝(共産党主席)、大臣より、下は一兵卒(人民解放軍二等兵)まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは、清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は、日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。
「脱亜論」・・・公知の内容故、省略する。
「支那観」より、
堂々たる政治家を自任する者(習近平、温家宝、胡錦涛、江沢民と顔つきを思い出されよ)にして、
美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、
彼らの心情が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。
支那人は食人族である。「水滸伝」にはこう書いている。
「ももから肉を二切れ削ぎ落とし、水で洗ってから、炙っては食い、炙っては食いして満腹になった。」
(魯迅の小説「狂人日記」も支那の食人習慣を扱っている)
支那人は、詐欺を義務とさえ考えているようである(碧眼録)。
支那では各社会を通じ、賄賂を罪悪とは見なさない。しかもおうぎょうに儒教の教典といったところで、一口で言えば、賄賂を使う方法を教えるものと断じていいだろう。
以上の通りである。
従って、昭和二年に蒋介石の指揮する北伐軍が、
南京城内に雪崩れ込んで日本を含む欧米の公使館の略奪放火殺人を始めた際、
幣原喜重郎外相が、福島安正、福沢諭吉そして内田良平の支那観に基づいて、
二十五年前の義和団事件の時と同様に、
米英と協調して支那に断固として対処しておれば、
この時点で国策を誤らなかった。
痛恨事である。
よって、この痛恨の教訓こそ、近い将来に、断じて生かさねばならない。
西村眞悟の時事通信より。