兵士たちの証言(3) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】

産経ニュース

厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐、中国人から転勤延期の嘆願書も。


善政を行った堀内海軍大佐の中国厦門住民からの転勤延期の嘆願書のレプリカを見つけ、日本語に訳した海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)教育参考館の元館長、三村廣志さん=広島県呉市(岡部伸撮影)


 盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。

 福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島(とう)嶼(しょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。

 15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。

 広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には、嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。

黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。

 「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」

 「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」

 「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」

堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。

(敬称略)

 【堀内豊秋氏】 明治33年、熊本県生まれ。大正11年海軍兵学校卒(50期)。デンマーク体操を取り入れた堀内式海軍体操を考案。日中戦争で厦門に陸戦隊司令として駐留。昭和17年1月、日本初の落下傘部隊隊長として、インドネシアのセレベス島メナド奇襲降下作戦を成功させた。終戦後の23年1月、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑となった。