【天皇の島から 戦後70年・序章(1)後半】
産経ニュースペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。
平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」
残留要望を認めず
昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。だが、守備部隊はそれを認めず、非戦闘員の島民を戦闘に巻き込まないため、19年3月から8月にかけて、全員をパラオ本島などに疎開させた。
当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」
ペリリューに一つの逸話が伝わっているという。
〈ある島民が一緒に戦いたいと申し出ると、守備部隊の中川州男(くにお)隊長に「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか」と拒否された。日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られたと思い、悔し涙を流した。しかし、船が島を離れる瞬間、日本兵が全員、浜に走り出て、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。その瞬間、この島民は、あの言葉は島民を救うためのものだった-と悟った〉
逸話の真偽は分からない。だが、ニルゲサンさんは「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」といい、ウエキさんも「逸話は今でも語り継がれている」と話す。生還者の永井敬司さん(93)がいう「日本人の誇り」は、島民疎開という形でも発揮されたのかもしれない。
「島が兵士のお墓」
1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻る。
島民が日本兵の被害状況を知るのは、昭和40年代に入ってからだ。日本人を父親に持ち、クルールクルベッド集落で民宿を経営するマユミ・シノズカさん(77)は「日本の兵隊さんが何人亡くなったかを知ったのは、日本から慰霊団が来るようになってから」という。シノズカさんはこの頃から、弟のウィリー・ウィラードさん(53)らと50年近くにわたり、慰霊団の食事の世話や島の中央部に立つ日本兵の墓地「みたま」の清掃などを続けている。遺骨収容に参加したこともある。
シノズカさんは言う。
「ペリリューそのものが日本兵のお墓。ご遺族に代わり、遠く離れた島に眠っている日本兵の冥福を祈る気持ちです。島に眠る日本兵は私たちが守ります」
アントニア・ウエンティさん(85)も遺骨収容に関わった一人だ。戦後、ペリリューに移り住んだ彼女は島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたという。ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養した。軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
ウエンティさんは「緑の島のお墓」という日本語の歌を作っている。
〈遠い故郷から はるばると/お墓を参りに ありがとう/みどりのお墓の お守りは/ペ島にまかせよ/いつまでも〉〈海の中にも 山の中/ジャングルの中にも 土の中/英霊よ よろこべ 安らかに/一緒に暮らそよ とこしえに〉
〈ペ島の願いは 唯1つ/日本とペリリューは 親善の友/かよわい力 よく合わせ/知らせておくれよ 祖国まで〉〈伝えておくれよ 祖国まで/父母兄弟 妻や子に/僕らはみどりの 島暮らし/涙をおさえて さようなら/涙をおさえて さようなら〉
遺骨収容し慰霊
「大山」と呼ばれる山の中腹にペリリュー神社が鎮座する。昭和57年、島民が見守る中、再建された。由来記によると、祭神は天照大神と戦死した日本軍守備部隊の一万余人の英霊。「護国の英霊に対し、心からなる感謝と慰霊鎮魂の誠を捧げましょう」とあり、島民が草むしりや掃除を続けているという。
日本兵の慰霊にこだわるのは、シノズカさんやウエンティさんだけではない。ウエキさんは「多くの島民が慰霊碑の建設や遺骨収容などに協力している」という。これほどまで日本兵の慰霊にこだわるのはなぜか。
ペリリュー州のシュムール州知事の母親、メンロムス・エテペキさん(89)は「なぜ、日本軍と米軍が自分の島で戦ったのか、という憤りはあった」と、一瞬、表情をこわばらせたが、すぐに「今は悪感情はない」と、笑顔で続けた。
彼女は、自分の名前をカタカナで書きながらこう話した。
「31年にわたる統治時代を通し、日本に対して特別な感情が育まれていた。日本への思いは深い」