【江戸っ子記者のなにわ放浪記】
産経ウェスト帝国陸軍
「機甲創設の父」の言葉と若手自衛官の凛々しさ
方面隊戦車射撃競技会で対戦車榴弾を放つ74式戦車=17日午後、滋賀県高島市の饗庭野演習場(山田哲司撮影)
爆弾低気圧が日本列島を覆い猛烈な寒風が吹き荒れていた。滋賀県・琵琶湖西岸沿いに位置する陸上自衛隊今津駐屯地(同県高島市今津町)にある「饗庭野演習場」。今月16日から3日間、陸自中部方面隊隷下の戦車部隊による「射撃競技会」が開催された。
参加したのは、第3師団第3戦車大隊(今津駐屯地)、第10師団第10戦車大隊(同)、第13旅団第13戦車中隊(日本原駐屯地=岡山県)、第14旅団第14戦車中隊(同)の計12小隊(約200人)の精鋭たちだった。
福井県側に連なる野坂山地を望み、山林原野を切り開いた演習場に、各部隊の「74式戦車」が4台ずつ横並びで射撃を各状況(距離約300~2100メートル)ごとの目標にめがけて実射し、正確な着弾を競った。
今回の競技会は、中部方面総監部(兵庫県伊丹市)の主管のもとで初めて実施され、中部方面総監の山下裕貴陸将が統裁官として初日に競技会参加者たちを前に訓示した。その訓示の中で、山下総監は旧帝国陸軍の「機甲創設の父」とされる吉田悳(しん)中将の「機甲斯くあるべし」の至言を紹介した。
「一瞥克制機」(いちべつ よく きをせいし)
「万信必通達」(ばんしん かならず つうたつ)
「千車悉快走」(せんしゃ ことごとく かいそう)
「百発即百中」(ひゃっぱつ すなわち ひゃくちゅう)
「練武期必勝」(れんぶ ひっしょうを きし)
「陣頭誓報告」(じんとう ほうこくを ちかう)
山下総監は、この至言を次のように解釈して指示した。
「敵に正確に命中させることは最低限であり、敵よりも先に迅速に撃破しなければならない。これまで多くの訓練を積み上げ、戦車の整備を万全にしてこの競技会に臨んでいることと思うが、そのすべての成果が弾先として現れることになる」
「機甲創設の父」とされる、旧帝国陸軍の吉田中将は、先の大戦を年末に迎えようとしていた昭和16(1941)年4月に創設された「陸軍機甲本部」の初代本部長を務めた。同本部は、戦車部隊などの機動的展開を統合して作戦指揮するために創設され、吉田中将が初期運営を主導した。
射撃を終えたばかりの若手自衛官たちに話を聞く機会を得た。
第3戦車大隊第3中隊第2小隊を率いる白山和輝三等陸尉(26)は、「陸上自衛隊に入隊したら、戦車部隊にぜひ加わりたいと希望していました。ふだんからなるべく、実戦を想定して訓練をしています。小隊のみんなを信じて競技にのぞみました」と話していた。
今春、自衛官になったばかりの同小隊の藤吉隼輔一等陸士(21)は「人の助けになりたかった。戦車部隊が希望だった」。水岡駿二等陸士(25)も「東日本大震災で災害援助活動を見て、自分もこうした任務をしたいと思った。戦車部隊にはぜひ入りたかった」。それぞれの入隊理由を話してくれた。
寒風の中、頬を紅潮させながら語る若手自衛官の姿をみると、「機甲創設の父」の思いが受け継がれているような気がした。
彼らには、別の取材陣からビデオカメラが向けられ、「集団的自衛権についてどう考えるか」などと言った質問もされていたが、「自分の任務を遂行するだけです」とキッパリ答える姿がまた凛々しかった。(近藤豊和)