我が国の食文化
我が国の食つまり日本食は、天然自然のものを「生」で食べることを特色としている。
我が国は、それが、可能な天然自然に恵まれている。
従って、子供は、食事をするときに、いただきますと言うこと、
そして、この食を生み出す国土の自然と、この食を収穫してくれた、お百姓さんに感謝しなさいと、
親から夕食に教えられて育つ。
自然への感謝と信頼と食を提供してくれる者への感謝と信頼が、我が国の食文化の特色であろう。
このことは、家庭で食べる食事の時も、いわゆる外食のときも同じである。
また、明治以降の近代化(西洋化)のなかで、今までになかった食をいただくことになっても変わらない。
日本食は、海と山と畑からの恵みを以て造られるが、海のものは魚介類であり、それを生で食べることを特色とする。
そして、戦後広まった肉食においても、それを生で食べることも普通に行われるようになってきた。
生レバーだとかユッケである。
そこで、この日本の食文化のなかにおける肉の生食であるが、この肉は、日本で丹誠込めて育てられた牛を前提にして始まったものである。
従って、肉料理も、日本食の伝統である食を生み出す国土と生み出してくれた者への感謝と信頼と調理者への信頼から成り立つ日本食そのものであると言えよう。
つまり、生で食べられるものを客に提供し、客は調理側の技量と判断を信頼してそれを食べて喜ぶならば、それは日本の食文化そのものであり、何の問題もないのである。
寿司は日本食そのものであるが、近頃は、そのネタは、世界中から日本に持ち込まれる。
それを信頼できる調理者が吟味して目の前で調理して提供してくれるのはかまわない。
しかし、海外で捕れた日本近海にはない巨大な魚を冷凍して人件費の安い某国(中共など)に送り、
某国で一口サイズに細分させて再び冷凍して日本に送り、日本で客の前を回転するレールに載せて安く売られる。
これは一体、日本の食文化なのか。
例えば、日本近海のヒラメのひれの付け根のところは「えんがわ」と呼ばれて美味しいが、ヒラメ一匹で四貫くらいしかとれない。
しかし、北米近海のヒラメ(カレイ)に似た畳み二畳分ほどの巨大な魚の「えんがわ」は、ヒラメの「えんがわ」に似ている。従って、その部分を中共に送って寿司の本来の「えんがわ」サイズに裁断すれば二百人分以上の「えんがわ」が日本で売れる。
日本の食文化の伝統から見て、この近頃はやりの現象は、これでいいのかな、と私は思う。
瀬戸内海でとれた絶品の「えんがわ」は高いぞ、むやみに食べられないぞ、トロを食えるのはもうちょっと頑張ってからだ、と親にも言われ自分にも言い聞かす。
そして、この絶品を客に出すためには、職人が鍛えた貴重な包丁を持つ長年修行した板さんがいる。
寿司とは、これでいいのである、と私は思う。
とはいえ、客が納得していて安全で食中毒などの心配がないなら、極安のネタを大量に提供していいではないか、外から文句を言うなと回転寿司から言われればその通りである。
そうであるならば、生レバーやユッケを客が納得して食べて安全ならば、それでいいではないか、外から文句を言うなということにもなる。
このように思っている矢先、京都の料理屋の板さんらが、生レバーを客に提供したとして逮捕されたという報道があった。
今まで食べてきた客がどうなのかの報道はない。従って、客は何ともないのだろう。
これはやり過ぎだ。
警察にこのようなやり過ぎをさせるように規定している法制度はおかしいと思う。
そもそもこうなったのは、数年前に、親が或食堂で子供にユッケを食べさせたところ、子供が食中毒をおこしてからだ。そのユッケの値段は二百円ほどだったという。
その時思った。おいおい、子供に二百円のユッケなど食わすなよ、と。
このお陰で、客の信頼の元に、美味しい安全な、ユッケや生レバーを出している同業者とそこの顧客がどれほど迷惑したか。また、しているか。京都の板さんが逮捕されてしまったではないか。
同様に思う。いくら安いからといって、子供に百円のトロを食べさすなよ、と。
つまり、日本の食文化においては、天然自然への信頼と感謝が肝心であり、安売り競争はなじまない。
西村眞悟の時事通信