十一月三日は、如何なる日か
十一月三日の昼前後、京都伏見桃山の明治天皇御陵に参拝し、感銘を新たにしてその御前で過ごした。
この日は、明治天皇のお誕生日である。
明治天皇の元で、国民は日清日露戦役の国難を乗り切って、
非白人世界で唯一の独立自尊の誇り高い近代国民国家を築き上げた。
この難戦のなかで敢然として死地に赴く日本軍将兵の姿は、欧米からの観戦武官を驚嘆させ、
彼らの本国は明治天皇の発せられた教育勅語の精神を尊重するとともに、
日本軍の如く戦える将兵を養成することを目指し、日本軍の闘いをモデルとして第一次欧州戦争を戦ってゆく。
これが、明治天皇と共にあった明治の御世である。
明治天皇崩御によって大正の御世となり、この大正に生まれ明治生まれの両親に育てられた世代が次の昭和天皇と共に大東亜戦争を戦う。
この大東亜戦争の戦闘に我が国は敗北した。
大正に生まれた男子は千三百四十八万人であり、その七分の一の二百万人が戦死した。
しかし我が国は、戦闘で敗れたが、国家の理想と戦争の目的において勝利した。
大東亜戦争において我が国は、フランスのドゴールやイギリスのチャーチルが認めたように、
白人の五百年にわたる有色人種支配体制を打ち砕いたからである。
そして、戦闘に敗れて連合軍の占領下に入って迎えた初めての正月元旦、昭和天皇は、歴史的詔書を発せられた。
その詔書は、冒頭、
「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初め、国是として五箇条の御誓文を下した給へり。」とされ、
「叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓いを新たにして国運を開かんと欲す」と宣言された。
即ち、昭和天皇は、明治天皇の五箇条の御誓文を以て、敗戦という国難を克服して我が国のみならず「世界人類のために輝かしき前途」を開こうと国民に呼びかけ励まされた。
そして末尾を次の感銘深い言葉を以て締めくくられた。
「一年の計は年頭にあり。
朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、以てこの大業を成就せんことを庶幾ふ(こいねがふ)」
よって、明治天皇の明治元年に鮮明にされた我が国家と国民の志は、昭和二十一年元旦の昭和天皇の詔書によって、現在の我が国家と国民の志となって継承されているのである。
即ち、我が国において、明治と昭和そして平成の現在まで、戦前戦後は断絶せずに連続しているのである。
そして、この国家と国民の連続性を取り戻すことが、
「日本を取り戻すこと」であり「戦後体制からの脱却」なのだ。
従って、現在に至る我が国家と国民の志の起点を鮮明にされた明治天皇のお誕生日である十一月三日こそ、
真の国民の記念日でありナショナル・デーである。
然るに、昭和二十年九月から七年間にわたって我が国を占領統治した連合国総司令部(GHQ)は、
我が国を「永遠に弱小国家に固定する為」(日本国憲法の起草者チャールズ・ケーディス)に次の通り、
輝かしい明治の御世を我が国民の意識から消し去ろうとした。
①日本国憲法前文において、明治の「憲法、法令、詔勅」を「人類普遍の原理に反する」として
「排除する」と規定たうえで、その明治天皇のお誕生日である昭和二十一年十一月三日にそれを公布した。
②明治には天長節、その後は、明治節として国民の祝日となっていた十一月三日を「文化の日」として、
明治天皇のお誕生日の記憶を国民から奪った。
③この明治天皇の示された志を、昭和の継承すると宣言された昭和二十一年元旦の昭和天皇の詔書に、
ことあろうに「人間宣言」というレッテルを貼ってその深く尊い「おおみこころ」を国民から隠蔽した。
その結果、戦後生まれが国民の大半となった現在、
私を含めて、未だ十一月三日に、明治天皇のお誕生日をお祝いした経験がない。
まさに、我が国においては、現在においても、GHQの亡国の奸計は、脈々と、生きている。
そして、毎年、十一月三日が来れば、文化勲章の日の報道一色となり、
明治天皇の志を忘却させるというその奸計の効果は年々再生産されて浸透してゆく。
よって、我々は、まず、
十一月三日を、「文化の日」ではなく「明治の日」として歴史を取り戻さねばならない。
このことは、国家と国民の輝かしい誇りある歴史と志と活力を取り戻すことである。
諸兄姉の、「祝日法改正」による「明治の日」制定を熱望する署名活動と国民運動へのご参加を
切にお願いいたします。
西村眞悟の時事通信より。