No.1010 平成26年 9月11日(木)
アイデンティティー誌を主宰している葛目浩一氏によると、
日本のメディアは無視して一切報道していないが、
この度、我が国を訪問したインドのモディ首相が、
インド国軍の創設者であるネタジ・チャンドラボースとともに戦い、インド国内に進撃してインパールに迫った日本軍の九十九歳になる老兵士に会って跪いたという。
まことに感動的ではないか。
インドは忘れてはいない。しかし、日本は忘れている。
このインドのモディ首相の老兵士訪問を知ったとき、
私の瞼には、ミャンマー(ビルマ)中部の灼熱の大地から遙か西方を眺めた時の情景が甦った。
その西の彼方にインパールがある。
その行く手を阻むアラカン山脈が見えた。
その谷間にはチンドウィンの激流が流れている。
チャンドラボースと今年九十九歳の日本軍兵士は、
あの川を渡りあの山脈を越えてインド領に入りインパールそしてコヒマに迫ったのだろう。
チャンドラボースに率いられたインド国軍が日本軍とともに、イギリス軍と戦い、インド領内に進撃した。
これが、インド独立を決定づけたのだ。
このインド独立を決定したイギリス軍との戦いに参加した九十九歳の元兵士を、七十年後にインド首相が訪れた。
感動せずにはおれない。
しかもその戦いは地獄の戦いだった。
当時の日本軍兵隊は言った。
「地獄のビルマ、天国のジャワ、生きて帰れぬニューギニア」
数年前、ビルマ中部のパガンから西のアラカン山脈を眺めて、
嗚呼英霊よ、
と目をつぶった時、
瞼の中が鮮血に染まったような灼熱の赤になって驚愕した。
インパール作戦を始めビルマ戦線で戦死した十九万将兵の霊が私の周りに押し寄せてきたように思えた。
イギリスの東南アジア地域連合軍総司令として日本軍と戦い、最後のインド総督となったマウントバッテン伯爵は、
あれほどの苦難の中でも秩序を失わず勇戦敢闘した日本軍のような軍隊は、地球上に二度と再び現れないでしょうと語った。
インパール作戦は、戦後の我が国では、ノモンハンとともに無謀で無意味な戦いと見られてきたが、
七十年後の現在においても、
インド首相が、その戦闘に参加した九十九歳の老兵士に跪く作戦である。
昭和十五年五月から九月にかけてのノモンハンでのソビエトとの戦闘についても書いておきたい。
日本軍第二十三師団二万人は、モンゴル・満州国境付近でジューコフ将軍率いる二十三万のソビエト軍との戦闘に突入する。
日本軍は二万に対して、ソビエト軍は二十三万である。
どうなったのか。
日本軍は、一万七千人が死傷したが、
二十三万のソビエト軍を打倒したのだ。
撃墜されたソビエト軍戦闘機は、千六百七十三機。
これに対して日本軍は百七十九機。
破壊されたソビエト軍戦車は、八百台。
これに対して日本軍は二十九台。
ソビエト軍指揮官のジューコフ将軍は、東部戦線で最終的にドイツ軍を打倒して英雄(ゲローイ)となったが、戦後、西側の新聞記者に「どの戦いが最も苦しかったか」と質問されて、
即座に「ノモンハンだ」と答えたという。
ノモンハンで二十三万のソビエト軍に勝利した二万の第二十三師団の将兵は、ジューコフだけではなく、
スターリンを震え上がらせた。
これが、あのスターリンが、昭和二十年の八月九日まで日本軍に手を出さなかった理由である。つまり、スターリンから北海道を守ることができた理由である。
ノモンハンの第二十三師団二万の将兵が最後まで日本を守っていたのだ
(福井雄三著「世界最強だった日本陸軍」PHP)。