差別用語というデマ「言葉狩り」に騙されるな!
■「番組中に不適切な表現があったことをお詫び致します。」
テレビでこのテロップを時々目にする。(きっと、出演者の誰かが差別用語を口にしてしまったのだろう)そう思うかもしれない。
しかし、所謂「差別用語」と言われる物の中には、元々「差別用語」でも何でもないのに、「差別用語」だと言いがかりをつけられてしまっている物がかなり多いことを御存知でしょうか?
「めくら」などの言葉が放送禁止であるという話になると、よくこんな言葉を耳にする。しかし私はその時こう言う。
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「あなたは悪くないのです。それに、元々「差別用語」でも何でもないんです。ただ、野菜を切る包丁で人を斬れば犯罪になるのと同じで、使い方を誤れば差別用語になる、それだけの話なんです。」
パソコンで「どもる」という言葉を打とうとした時、その言葉は日常使うにもかかわらず、なかなか変換できない。何と、「どもる」は差別用語扱いされてATOKの変換辞書に入っていなかったのです!
周りの人はともかく、当事者でさえ差別用語だなどと全く信じられない言葉に、このようにして「差別的で日常生活から排斥すべき言葉」のレッテルが次々と貼られてしまっているのです。
■「盲目的」はダメで「近視眼的」はOK?
「めくらめっぽう」や「盲目的」は「盲人差別」のレッテルを貼られているのに、「近視眼的」は「近眼差別」に該当しないのだろうか?
近眼で眼鏡やコンタクトを付けてる人は日本中に星の数ほどいるのに、抗議する人などまずいないのは、何故だろう?
素朴な疑問ではあるが、何かおかしいと思わないですか?
■誰だってキチガイになるし、ビッコも引く
先程「どもり」の例をあげましたが、緊張するとつい「どもって」なかなか言葉が出ない。そんな経験は、医師に「吃音症」と診断された人でなくとも、誰だって経験する事ではないてじょうか?
ある会社の事務の人が月末は伝票の整理で忙しくて「きちがい」になってたと言っていたのを思い出す。
そういう意味で「きちがいに」なる事とか、「気が違ったように」激怒するような事は、別に精神病と診断された人じゃなくとも、誰にでもあります。
足に障害があるなどでなくとも、片方の足をくじいたら、「びっこをひく」のは誰でもそうである。
どちらも、守備範囲の広い言葉です。一時的な「どもり」も慢性の吃音症も「どもり」と呼び、一時的な「きちがい」も慢性の精神錯乱も「きちがい」と呼ぶ。
このように、慢性的でなくとも、一時的にとか比喩的には誰もが経験するような事柄です。(しかし、どの「どもり」も必ずしも「吃音症」ではなく、どの「きちがい」も必ずしも「精神異常」ではない。必ずしも守備範囲の狭い言葉で言い換えはできない。)
このような言葉を正しく用いる事は「差別を助長する」どころか、寧ろ「我々は『障害者』や『患者』と呼ばれる人々と別の世界に住んでいるのではない。我々だって同じなのだ」という観念を無意識のうちに培う事になっているのです。
■人権を盾に権利を踏みにじるクレーマー達と、事なかれ主義のテレビ局
特にテレビ局の場合、視聴者からのクレームに極端に反応し過ぎているのが、この「差別用語」問題の原因なのです。
確かに視聴者の誠実な意見に耳を傾ける事は大切ですが、中にはトンチンカンな理由で「~は差別的だ」「~は差別用語だ」、とクレームを付ける思いこみの激しい人も結構いるのです。
それまでならまだしも、差別を撲滅する為なら、相手にヤクザまがいの脅迫まで辞さないという反差別団体もあり、これもまた問題を厄介にしている。
このようなクレーマーの文句や、行き過ぎた反差別団体の恐怖の糾弾に巻き込まれるよりは、最初から無難に避けておこう、というわけです。
各テレビ局とも門外不出の差別用語ガイドラインがあるらしいが、どうもこれが「学校の小使さん」がダメだ、「日雇い人夫」がダメだ、「床屋さん」も「百姓」もダメだ、と、あまりにも極端な物のようである。
これらの言葉が差別用語リストに載っていたなんて信じられないという人の方が多いだろう。
結局、このような差別用語ガイドラインは、本当に差別的だから特定の用語を禁止するというよりは、特定の用語を差別的だとクレームを付ける視聴者によるトラブルを未然に防ぐ、事なかれ主義的なものなのです。
■いわゆる「差別用語狩り」は歴史修正主義
百歩譲って、これらの言葉が本当に「差別用語」だとしても、私は過去の作品や資料にまで遡って「差別用語」を抹消する事は本当に良いのだろうかと首をかしげます。
ヒトラーのユダヤ人虐殺のような考えを皆が二度と持たないように、その歴史をあらゆる歴史書からぬぐい去ろうとしている反ナチ団体、日本人が二度と南京市民を虐殺しないように、「南京大虐殺」の歴史をあらゆる歴史書からぬぐい去ろうとしている中国人の団体が、果たしてあるだろうか?
抹消せずに残しておく事こそ、その作品や資料の作成された当時の差別の歴史を、そのまま証拠として残す事になるのである。
■本当に「被差別者の気持ちになって言葉を選ぶ」とは?
私は片手落ちなんて言葉は使わないようにしている。障害や事故で片手のない人がその言葉を聞いたらと想像すると、そんな言葉は使えない」という意見も耳にする。
ある個人がそう判断して特定の言葉を使わないと決定することは自由だから、私はその決定そのものに文句を付ける筋合いはないし、思いやりの気持ちそのものは素晴らしいと思う。
しかし、私個人としては、その考えには疑問です。(完全な誤用だし見たことも聞いた事もないが)「この片手落ち!」と片手のない人に対する罵倒語として使うのにはもちろん反対だが、しかし、「片方に対する配慮が足りない」という正しい意味で「片手落ち」を用いる事は全く問題ないと思うし、そこまで気にしてタブー語にするのは考え過ぎだと思います。
仮に、私が片方の腕を無くしてしまったとします。それでも私は、恐らく「片手落ち」という語を禁止することに対して「そこまで大げさに気を遣ってくれる必要なんて全然ないよ!」と言うでしょう。
また、そのタブーを破って「片手落ち」という言葉を使った子供に、親が声をひそめて「いけません、そんな言葉使ったら、この人が悲しい思いするでしょ?」なんて言っているのを、私が聞いてしまったなら、私は寧ろ怒るだろう。
日常会話で「片手落ち」という言葉を普通に使うことよりも、この態度の方が余計差別的な感じがして嫌です。
そんなの、障害者への思いやりなんかではなく、むしろ障害者を特殊なものとかタブー的にしてしまっていると思う。
これこそまさに、現代の「差別用語狩り」の態度だと思う。車椅子に乗った人を指さして「あのおじちゃんの乗ってるの、何?」と言う子供を「そんなこと言うもんじゃありません、それにジロジロ見るもんじゃない!」と小声で窘める事によっては、差別は決してなくならないし、障害者への思いやりも決して生まれない。
寧ろ、自分の差別的でない純粋な行動に悪とタブーのレッテルを貼られたその子供は、障害者は自分と違う特殊な世界の存在で、障害者について考えるのはタブーな事と思うようになるだろうし、車椅子の人を見かけても声を掛けにくくなるでしょう。
特定の言葉を所謂、社会的弱者に大げさに気を遣い過ぎてタブー化する事も似たようなものだと思う。
(それにしても、特定の言葉が差別的であるとする主張が論破された時に限って、「意図は差別的でなくても、そう思われる可能性もあるでしょ」「配慮が足りない」という言葉で、無理矢理にでも差別にこじつけるような気がするのは私だけだろうか?)
しかし、だからと言って私は「きちがいは精神病院で脳波診てもらえ!」などと見境無く自由に言って構わないと主張しているわけではない。
所謂「差別用語」扱いされている言葉に限ったことではないが、言葉にはTPOというものがあるのだから。
カツラやエステの会社がテレビ局のスポンサーに付いている限り、「ハゲ」や「肥満」という言葉は、恐らく永久に放送禁止用語にならないだろう。
なるほど、テレビでハゲや肥満をからかったブラックジョークが出るたびに、ハゲや肥満の人は傷ついているのかもしれない。ゆえに、面と向かって「ハゲ!」「肥満!」と嘲笑する事は避けるべきとしても、だからといって「ハゲ」や「肥満」を差別用語とするのは行き過ぎだろう。
それらの言葉を正しい時・場所・状況において正しく用いることは全く正当なことであり、それと同じ事なのです。