差別用語というデマ「言葉狩り」に騙されるな!
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かつて「○○は差別用語だ、理由は△△という語源に基づくから」と言われた説の多くが誤りである事が、近年だんだん明らかになりつつあります。
しかし、かつてその間違いを一生懸命になって唱えていた人達にとって、それを暴露されるのは、どうやら気にくわないらしい。
「確かに差別的な語源ではないが」と認めたふりをして見せて、「語源はどうあれ今は差別用語」と開き直る。
「差別用語という見解はもう広まってしまったから使わない方がいい」「誤解でも人を傷つける事がある」などと、その誤解を広めたのが誰なのかを棚に上げたまま、厚かましくも、その誤解を正すどころかさらに広めていく。
気を付けよう。こんな「マッチポンプ」的、「後出しじゃんけん」的な屁理屈に騙されてはならない。
ある言葉が差別発言かどうかは、彼らが勝手に「その言葉は差別用語」と言い出したかどうかで決まるのではない。文脈で決まるのです。
■はぁ?「子供」が差別表現だって!?
新聞で「誘拐」を「誘かい」、「拉致」を「ら致」と書くのは、常用漢字表にない漢字だからだそうです。
日本人はそれくらいの日常的な漢字も読めないだろうと思われて、新聞社に馬鹿にされている。「炭疽菌」を「炭そ菌」と書かれては、「炭素菌」と勘違いしてしまいそうだ。
二酸化炭素は炭そ菌の仲間なのだろうか。しかし、これくらいなら、まだ可愛いほうです。「子供」の「供」は小学校で習う漢字のくせに、わざわざ「子ども」と書く新聞社や出版社が多い。
表外漢字どころか、小学校で習う漢字すら読めないと思われて、我々は馬鹿にされているの?実は、驚くかもしれないが、「子供」という言葉が、今、「差別用語」として、出版界や教育現場などあちこちから追放処分を受けているのです。
その代わりに、「子ども」と、「供」をひらがなに直した表記ばかりを目にするようになった。
全く誰が差別用語だと言い出したのか?レッテル貼り、言葉狩りも甚だしい!
■こどもの「ども」は複数形の「共」に由来
いつ頃からこの言い換えが始まったのでしょう?一説には、昭和二、三十年代頃と言われているが、羽仁説子という人が、『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだから良くないと言ったのが始まりらしい。
果たしてそうなのだろうか?明治二十二年に初版が発行された「言海」という国語辞典(私が所持しているのは昭和四年の縮刷十五版)で「ども」(こども)を引くと、このように書いてある。
∇
-ども (名) |子供| (一)多クノ子。衆兒 (二)ワラベ。兒童
なるほど、確かに、「子供」とは「多くの子」が元々の意味らしい。つまり「男共(おとこども)」が「男」に「共」を付けて複数の男を表すのと同じで、「コ」に「ドモ」を付けて複数の子を表す「コドモ」になったのだ。
しかし、現代語で「子供」は「こ」+「ども」ではなく、「こども」という一つの語になってしまっている。
それを示す二つの証拠がある。まず、「子供」と似た例に「友達」があるが、これも今では「とも」+「たち」ではない。
一人の「子供」も一人の「友達」もいるし、複数形は「子供等(こどもら)」「子供達(こどもたち)」や「友達等(ともだちら)」である(逆に「男共等」とか「男共達」とは言わない)。
次に、「オトコドモ」は「男共」と書くのに、「コドモ」は「子共」とは書かず「子供」と違う漢字で書く。
このように、現代語では元の意味(子の複数形)がすっかり薄れてしまっているのである。
つまり、「コドモ」の「ドモ」とは、元々は複数形を表す「ドモ」であり、後に「供」の字が宛てられたというのが、この言葉の語源です。
何故この字が宛てられたのかは、はっきり分かっていません。しかし「親のお供という意味で供の字を宛てられた」という証拠は、今のところ出てきていない。
証拠もないのにイメージが悪いからと縁起担ぎだけで日本語の日常重要単語を一つ抹殺されてしまっては、全く迷惑な話です。
この点を指摘すると、さすがに「子ども表記原理主義者」も痛いところを突かれたのか、苦しい言い訳をします。
「子供」は連想による誤解であったとしても、誤解が成立する言葉をわざわざ用いることはないと思う。などと言う。
馬鹿げた言い訳です。
「意味を誤解され易い言葉だからいけない」のではなくて、正しい意味を知らずに勝手に誤解した方が悪い。
そもそも、大抵の人は、「子ども表記原理主義者」に彼らの馬鹿らしい教えを吹き込まれない限り、そんな誤解などしていない。「子ども表記原理主義者」が勝手に妄想をふくらませているだけの話だ。
■子供が「子ども」になる時、日本は終わる?
さて、仮に百歩譲って「供」の字は親の「お供」を連想させるという説を認めるとしても、まだ疑問は残る。
子供は本当に「供」でないのだろうか?「お供(お伴とも書く)」とは、ある人に付き従って行く人の意味です。
子供はいつから親に付き従わなくてよくなったのだろう?子供が「子供」でなくなった時、それは「子ども」が親の指導に付き従わず、「人権」の名の下に勝手気ままな行動をして人に迷惑をかけたり犯罪を引き起こしたりする時代であり、それはまさにこの現代社会なのだ。
誤解して欲しくないのだが、誰かが「子ども」と書いているからと言って、即、言葉狩り賛成論者とレッテル貼りするのではなく、差別云々という理由ではなく、(かつて当用漢字音訓表外の読みという理由で「友達」を「友だち」と書いていたのと同じく)「子供は宛字なので平仮名で書く」という方針だったり、「子ども、と書いた方が柔らかみが出る」という理由から、どちらかというと「子ども」という表記の方に親しみを持っている人も少なくない。
私自身は「子供」表記を主に使っているものの、「子ども」と書くのは絶対駄目だとまでは言わない。
私が寧ろ問題に思うのは、他人に「子ども」表記を無理矢理押しつける事です。
■とある掲示板で見かけた書き込み
味噌煮込みコアラさんという方へ
現在は元のサイトでは無くなっていますが、当時の内容がInternet Archiveに残っています。
差別用語の不名誉なレッテルは、無実な言葉にこうやって貼られていく。
■「差別用語」という言い方では、文脈を無視して単語のみに罪を着せる事になる。
ある特定の単語を避ければ良いという問題ではない。インターネット掲示板で「死ね」と書かずに「氏ね」と書けば脅迫に当たらないという考えが間違っているのと同じで、「片輪」や「気違い」や「エタ」という語さえ使わなければ「身体障害者」「精神障害者」「被差別部落民」に対する中傷発言が許されるという考えも間違っている。
残念ながら日本では「差別用語」という言葉が広く使われてしまっているために、まるで単語に罪があるかのように思われてしまっているが、本当は、単語でなく文脈に問題があるのです。「差別表現」はあるが、「差別用語」は(侮蔑専門語の例外を除き)ない。
某外国人による犯罪が多発しているからといって、「○○人は犯罪者予備軍だから、みんな日本から追放しろ」と言うのはあまりにもナンセンス。
それでは、ある言葉が中傷や差別に誤用される可能性があるというだけで、「差別用語」というレッテルを貼って日本語から存在を抹殺するというのは、どうだろう?
それに、差別表現はあくまでも枝葉の問題であり、根っこである差別意識を根絶しない限り、いくら刈り取っても雑草のようにしぶとく伸びてくる。
雑草に見える枝葉だけ刈って満足するのは本当の差別撲滅運動ではなく、人々に自分の善行を見せつけるだけのパフォーマンスに過ぎない。
それに、行き過ぎた行動は、雑草だけでなく穀物まで刈ってしまっている事が往々にしてある。
■「差別用語」でなく単に「放送・出版自粛語」に過ぎない事が多い。
あるテレビ番組や出版物で、特定の言葉の使用が自粛されていたり、別の言葉に書き換えられたりしている事がある。
これは「差別用語」だから使わない事にしたのだろうか?必ずしもそうとは言えない。
実は、一般に「差別用語」と言われている言葉の大半は、本当の意味で差別用語、つまり差別的罵倒専門語ではない。「万一傷つく人がいるといけない」と余計なお節介をする余りに、差別的な用語でも何でもないのに、放送・出版の世界で使用を自粛しているだけの事が多い。
気を付けないと、我々も特定の言葉を「差別用語化」して使えなくしている勢力の片棒を担いでしまいかねない。
例えば我々は、「あるテレビ番組で『乞食』という言葉が消されていたが、それは差別用語だったからだ」とか「今は『百姓』という言葉は差別用語になっていて使えない」などという誤解を広めてしまうことがあるだろうか。
これは、大手のマスメディアが垂れ流している誤解をそのまま広める事になりかねない。
これはあくまでもマスコミ側の独自に定めた基準に過ぎず、我々の日常生活での基準とは異なるし、それに合わせる必要もない。
我々は、特定の言葉を文脈を無視して機械的に退ける愚を犯すことなく、マスコミ以上に正しく実際的な基準を追い求めていくべきである。
■言葉に対する差別が進み、「差別者以外に殆ど使われない語」という既成事実が作られていく。
良くも悪くも使われてきた、ある単語に、ある日「差別用語」の罪を着せられてからは、状況は一変する。
その語を使うのは、少数の「差別確信犯」と「それが濡れ衣だと知って使っている人」を除くと、「それが差別用語だと知らない人」だけになる。
しかもこの層は、「知らなかったんですか、それって差別用語で、使っちゃいけないんですよ」と言われると「知りませんでした。今後(良い文脈でも)一切使いません」となる。
このようにして結局、差別的でなく使ってきた層がどんどん減ってしまい、あとは少数の「差別確信犯」と、それより少ない「それが濡れ衣だと知って使っている人」だけが残る。
結局、「差別者以外には殆ど使われない語」という既成事実が作り上げられてしまうのです。
「○○は、かつては差別用語ではなかったが、今は差別用語であると認識されている」と説明する人は多いが、こんな主張を聞くたびに、私は憤りを感じます。その語を「差別用語化」してしまったのは誰なんだ!?責任者出て来い、と。
■逆にそれらの語を使ってきた父祖に対する差別と冒涜です。
「かつては、今では差別用語と認識されている語が広く使われてきた」という説明もよく目にする。
まるで昔の人間がみんな差別主義者だったかのようにみなす差別発言を、私は許さない。(しかし、「かつては、今では差別発言と認識されている表現に日常的に接したものだった」という表現なら正しかろう。
例えば学校で「おい、そこのメガネ!」と生徒を呼ぶのは、クラスによってはごく日常の風景だったし、左利きとか色盲等を「身体的欠陥は人間的欠陥だ」などと、人を傷つける発言をする人だって、結構いた。
しかし、人を傷つける表現の問題と、用語の問題を混同すべきではない。また、言うまでもない事ですが、昔の人がこんな人ばかりではなく、時には「そんなこと言ったら傷つくでしょう?」とたしなめる姿もまた日常的だった。)
なるほど、文脈からしても明らかな差別発言が問題であるのなら、一理あるだろう。しかしそうではないようだ。
差別的でなく普通にそれらの語を使ってきた父祖たちを、「差別用語を使ってきた」などと差別的な目で冒涜するのはよして欲しい。
■差別用語反対運動は、政治的活動と結びついている事がある。
全てがそうではないが、場合によっては、ある極左集団や反日勢力、カルト宗教団体、左翼市民運動団体などの連中が、特定の言葉は「差別用語」だと主張してイメージダウン「印象操作」させ、使いにくくさせている場合がある。
例えば、ウーマンリブ運動が一番有名かもしれない。また、「子供」を「子ども」と書くことは、子供は大人に従うことよりも自分たちの人権の方が大切だとの政治的信条から出ている事がある。
また、自分たちのグループの主張を宣伝する事とか、人権教育が行き届いていない福祉に対する意識が遅れている事を強調して、そのグループが受け取る福祉予算を増やしてもらうことが目的だったりする(もちろん、それが本当に必要な予算なら、予算そのものは私も賛成だ。
しかし卑怯な手法で予算をもらおうと企む手段はいただけないし、予算の無駄遣いは問題だろう)。
もしあなたがその団体の政治的イデオロギーを受け入れないのであれば、その「差別用語」だという主張も一度疑ってみる必要があるだろう。
少なくとも、どんな政治的意図が背後にあるのか、一度調べてみるべきです。
■そしてその「差別用語反対運動」は、弱者をダシにして、グループの信条を巧妙に押し付けている場合がある。
弱者にしか痛みは分からない、弱者の気持ちになって考えろと言いますが、その「弱者の気持ちになって考える」とは、グループの信条や方針を受け入れるという意味に他ならないことが往々にしてある。
この詭弁に惑わされてはならない。皆が持つ弱者への労りの心に便乗すれば、弱者をダシに使えば、どんな屁理屈でも通用すると考えるのは大間違いである。
左翼は巧みに弱者をダシに使い利権にタカるのが得意です。騙されないで下さい。
■こういう訳が分からない事を言う奴が要るから、変に腫れ物に触るような反応になる。
「うっかり口を滑らせたら人権団体に酷い糾弾を受けそうで怖い」という恐怖が一般に蔓延している原因はまさに「差別用語」の名の下の大袈裟な言葉狩りであり、それは社会的弱者に真の思いやりを示すどころか「何かされたら怖いから」という消極的な理由で見かけばかりの「思いやり」を示すだけに終わる。
そして、「弱者はこういう常識知らずのわがままな輩ばかりだ」という誤解ばかりが一人歩きして、かえって差別感情を深める事になる。
結局、社会的弱者とそうでない者との溝を埋めるどころか、さらに一層溝を深くすることになりかねない。
当事者にとっても大きな迷惑であり、寧ろ「差別根絶の敵」と言えるでしょう。
続く