産経ウェスト
ラバウル島、海軍大尉は「日豪が仲良く手をとりあう日の近からんこと」
と手紙に書き、豪州兵の死刑執行を受けた、豪州人は激しく後悔した
マッカーサーと直談判した男(下)
片山日出雄海軍大尉が処刑されたラバウル島。処刑のその日、片山は豪州兵に目隠しを断り、英語で感謝の言葉を述べ、散っていった
軍事法廷で「自分だけを死刑に処せ」
「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いがした」。連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官はこう語って今村均・元陸軍大将に最大限の敬意を表したが、今村のその人となりを伝えるこんな証言も残されている。
「『三畳小屋』の伝言」の著者、朝野富三さんがその証言を紹介している。
大蔵官僚でA級戦犯として巣鴨プリズンに入り、戦後は衆議院議員、法務大臣を歴任した賀屋興宣氏が、かつては偉そうにしていた者たちが刑務所でいかにだらしなかったかに触れ、「こういうところにくると人間の地金が出るのである…。ほんとうに尊敬を受けた人として知られた人は今村均元大将と、死刑になったが元東海軍司令官の岡田中将であった」とインタビューで語っている。
マッカーサーと真っ向から対峙した軍人が今村の他、もう1人。それが、この岡田資(たすく)中将だ。
名古屋の第13方面軍(兼東海軍)司令官だった岡田は、捕虜となった名古屋空襲を行った米軍爆撃機B29搭乗員の処分をめぐり、B級戦犯として投獄されるが、「全責任は最高司令官の自分にある。自分だけを死刑に処せ」と軍事法廷で主張、部下19人の命を守り、1人だけ死刑判決を受けたのだ。
「無実、理解してくれるはず」と出頭も死刑判決
「『三畳小屋』の伝言」には、今村が刑務所で、ともに暮らした部下たちの話も紹介されている。
その1人が、片山日出雄海軍大尉。片山は東京外大を卒業後、英語が堪能だったため、インドネシア東部のアンボン島の海軍基地に通信将校として赴任する。熱心なクリスチャンで、帰国後は東京の教会の牧師になる予定だったという。
終戦後、東京で新婚生活を送っていた片山の下へ戦犯容疑でオーストラリア軍から出頭命令が来る。片山の友人は「無実であるし、相手は理解してくれない。しばらくどこかへ身を隠せ」と逃亡するよう説得するが、「きっと無実を理解してくれるはず」と、真面目な片山は東京から飛行機を乗り継いでモロタイ島へと向かう。だが、わずか4日間の軍事裁判の後、死刑判決が下されるのだ。
「モロタイに来た愚かさを考え出し、これも宿命ならんと思います」。片山は日記にこう記している。
古代ローマの殉教者を見る思い
モロタイ島からラバウルの収容所に身柄を移された片山は、そこで今村と出会う。
今村は、片山に牧師役を頼み、オーストラリア軍と交渉し収容所の中に教会をつくる。当初、兵士らは様子をうかがっていたというが、しだいに集会への参加者は増えた。今村は片山の得意の英語を生かそうと、青空教室で英語の授業も始めた。
オーストラリア軍は今村たちの活動に好意的だったわけではなかった。
一輪車で土砂を運ぶ厳しい労働作業中、1人の兵士が気絶した。兵士をかばった片山にオーストラリア軍兵士の矛先が向かった。
「代わりにお前がやれ」と命じられた片山は黙って一輪車を押し続けた。
今村がこのときの光景を後に自著に記している。
「さすがはクリスチャンです。低く賛美歌を口にし、現地人に追われている。右ひざの関節部を痛めた片山大尉が、びっこをひきひき一輪車を押す姿はいたいたしかった。なんだか、ネロ時代の古代ローマの殉教者を見るような心地がした」
処刑前日、すべての教え子兵士に徹夜で返事を書く
こんな片山を慕う収容所の兵士は多かった。ある兵士はこう証言している。
「片山大尉は死刑確認の当日まで、英語のレッスンをやっていたが、その日午後、呼び出しがあると、いよいよ自分もお別れである、今のうちに分からないところは全部聞いてくれといって笑った。すでに彼は神の子であった。私の脳裏にいまも去来するものは、片山大尉の完爾としたあざやかな影像である」
片山の死刑執行日は前日に決まった。片山を慕う兵士たちからたくさんの別れの手紙が寄せられた。
その一部が紹介されている。
「わが愛する兄よ。一年半余、兄との出来ごとが次から次へと、たえまなく浮かび上がってくる。もう泣けて書けない」
「もし私が先生を知らなかったなれば、私の一生は全く自己主義で凡人の人生を過ごすようになったかもしれません。幸い先生に見出され、神の子としての教えにあずかり…」
死刑前日、片山はこれらの手紙すべてに徹夜で返事を書いたという。
「今村大将閣下 慈父のごとき御愛をもって、長い間親身に及ばぬお世話をしていただき、私は誠に果報者でありました。…日本と豪州が仲良く手を取り合って栄える日の近からんことを祈っております。ではご機嫌よう。さようなら」
これは今村へ宛てた手紙の一部だ。
目隠しをせず、死刑執行の豪州兵に感謝の言葉
処刑日の早朝、今村は収容所長を起こし、片山の死刑の猶予を必死で求めるが、拒絶される。
死刑執行に向かう片山は、オーストラリア軍の兵士に目隠しをされるが、「必要ありません」とこれを取るよう求め、英語で感謝の言葉を述べたという。29歳だった。
3日後に行われた追悼式で最後のあいさつに立った今村は「いつの日か私はこの真実を世に発表する」と決意を語った。
平成3年、オーストラリア映画「アンボンで何が裁かれたか」が公開される。片山の裁判を担当したオーストラリア人の検事の息子が父の残した裁判記録を見つけ、映画化したのだ。映画では上官の責任を被った片山を死刑にしたオーストラリア人の反省の思いが描かれている。
戦後70年が過ぎ、戦争体験者が次々と亡くなっている。「『三畳小屋』の伝言」の映画化をぜひ実現してほしいと願う。
片山日出雄海軍大尉が死刑判決を受けたモロタイ島
三畳小屋を守り続けた中込藤雄さん(中央)と朝野富三さん(右)、新風書房の福山琢磨社長=山梨県韮崎市