ソ連軍が日本人1000人を虐殺した葛根廟事件を忘れてはならない
「ウソも100万回繰り返せば真(まこと)になる」とか、「1人殺せば殺人だが、100万人殺せば英雄だ」という。
産経新聞の連載小説『アキとカズ』の読者から、「物語の参考にしてほしい」と、1945(昭和20)年に制作されたソ連軍のドキュメンタリー映像を送っていただいた。
卑怯(ひきょう)極まりないソ連の参戦を「正当化」するためのプロパガンダ番組で、「(ソ連参戦は)世界平和のため」とか「ソ連参戦こそが戦争を終わらせることができる」とか、よくもまぁ、ぬけぬけとウソ八百を並べられたもんだ。
揚げ句の果てに、「(ソ連参戦が)日本の住民を長引く苦しみから解放させられる」だと? 開いた口がふさがらない。悪魔のごとき苦しみを日本人に与えた「張本人」が、である。
ちょうど同じころ、ソ連軍によって約1000人の民間人が、虫けらのように虐殺された「葛根廟(かっこんびょう)事件」の生存者や遺族らでつくる、興安街命日会編の約600ページに及ぶ大作『葛根廟事件の証言』(新風書房)が発刊されるのを知った。
葛根廟事件については、時事通信解説委員長、日銀副総裁を勤めた藤原作弥(さくや)さん(昭和12年生まれ)をインタビューしたときに、詳しくうかがったことがある。
満州(現中国東北部)北部の興安街に住んでいた藤原さん一家は終戦の年の8月10日、突然、侵攻してきたソ連軍から逃れ、運良く“最終列車”に乗ることができた。しかし、同級生や近所の人たちの多くは徒歩での逃避行を余儀なくされ、同14日昼前、近郊のラマ寺院「葛根廟」近くで、ソ連戦車群に見つかってしまう。
その数約1300人。ほとんどが女、子供、老人である。非戦闘員の民間人に対して、ソ連軍はまったく容赦なかった。逃げ惑う人たちに戦車の砲撃を加え、キャタピラで蹂躙(じゅうりん)し、くぼみに隠れた人たちを見つけてはマンドリン(サブマシンガン)の銃弾を放つ。
先のソ連軍のドキュメンタリーにも、満州の荒野(大興安嶺)を行く戦車部隊、騎兵隊、マンドリンを携えた歩兵が突進する映像があった。こんな大部隊に「丸腰」の民間人が襲われら、ひとたまりもなかったろう。
阿鼻叫喚の地獄絵図は約1時間数十分にわたって続いた。もはや逃れられないと、覚悟を決めて自決した人を含めると、犠牲者は約1000人に上る。運良く、生き延びた子供たちの多くは中国人に引き取られて「残留孤児」となり、戦後も差別や貧困、重労働の苦難の日々を送ることとなった。
日本まで生還できた人たちはわずか百数十人に過ぎない。藤原さんは同書の序文で、「幼い頃から私には『ボクだけが生き残った』という後ろめたさが常につきまとっていた」と苦しい胸の内を打ち明けている。
葛根廟事件から間もなく69年。同書には、悲劇を目の当たりにした生存者の生々しい証言と詳細な記録が収録されている。この悪魔のようなソ連軍の所業を次代の日本人に語り継いでいかねばならない。さもなくば「世界平和のため」などという大ウソを信じてしまう日本人が出てこないともかぎらないではないか。