【子供たちに伝えたい日本人の近現代史(68)】
「分け前」求めソ連が参戦 中立条約反古で満州は悲惨な目に
ヤルタ会談に臨む前列左からチャーチル英国首相、ルーズベルト米国大統領、スターリンソ連首相。この会談でスターリンは秘密裏に対日参戦を「約束」していた=1945年2月、クリミア半島(米国立公文書館)
広島に原爆が投下されて2日後の昭和20(1945)年8月8日夕、駐ソ連大使、佐藤尚武はクレムリンで、モロトフ外務人民委員(外相)と会う。
佐藤は本国の訓令を受け、ソ連仲介による和平にいちるの望みを託し、モロトフに会見を申し入れていた。それだけに、前向きな提案があるかと多少の希望を持ってクレムリンに向かう。だがそこで手渡されたのは非情な日本への宣戦布告文だった。
宣戦布告は、日本が7月26日の米、英などによる要求、つまりポツダム宣言を拒否したことをあげ「連合国から戦争終了促進のための対日参戦要求を受け入れる」としていた。
日本とソ連は近衛文麿内閣時代の昭和16(1941)年4月13日、中立条約を結んだ。互いの領土不可侵を尊重するとともに、一方が他国と紛争を起こした場合、中立を守ることをうたっていた。
条約の期限は昭和21年4月までだった。1年前の20年4月にソ連が不延長を通告したとはいえ、この時点では明確に有効であり、宣戦は完全な裏切りだった。
ソ連は実はこの年2月、クリミア半島のヤルタで行われた米、英、ソ3首脳会談で、ドイツ降伏後3カ月以内に対日参戦することを「密約」していた。
日本での「本土決戦」を避けたい米国のルーズベルト大統領の要請にスターリン首相が応えたのだった。だがそれは戦後になるまで極秘にされ、佐藤は著書の中で、ソ連の厳しい監視活動の中で、全く察知できなかったことを認めている。日本外交はすでに参戦を決めている相手に和平仲介の望みを託していたのだ。
スターリンは当初8月11日を参戦の日と決めていた。だが6日の広島への原爆投下で降伏が早まり「分け前」にありつけないのを恐れ、前倒ししたのだという。そして9日未明、総兵力157万という極東ソ連軍が、東、北、西の三方から国境を越え、日本の関東軍が守備にあたる満州(現中国東北部)になだれ込んでくる。
日本は国策を「南進」に切り替えた後も、満州でのソ連への備えをおろそかにしていたわけではなかった。日ソ中立条約締結から2カ月後の16年6月、ドイツが不可侵条約を破りソ連に攻め込むと、陸軍は関東軍特種演習(関特演)の名目のもとに、満州への大幅動員をかけた。
ソ連の極東軍はドイツとの戦いで西部に大移動すると予測、その間にソ連領に侵攻、南進と同時並行で北方問題も一気に片付けようという二正面作戦だ。結果的にソ連軍の西進はなく、日本は中立条約を守ることになったが、関特演により関東軍の兵力は一気に70万以上にふくれあがった。
しかし17年のガダルカナル敗北から南方での戦況が厳しくなり、本土決戦も考えられるようになると、関東軍の精鋭部隊は次々とフィリピン、ビルマ、それに内地の守りにと間引きされていく。
在満州日本人の成人男子を残らず召集する「根こそぎ動員」で兵員数は何とか保ったものの、練度や装備の面での弱体化はぬぐいようがなかった。
このためソ連軍の侵攻後、関東軍は敗走するしかなく、多くの兵士は一部の満州国官吏らとともにシベリアに連れ去られ、厳しい労働につかされる。武装解除した日本の軍隊は家庭に帰らせると約束したポツダム宣言違反だった。
また満州国北部に入植していた開拓農民ら関東軍が守るはずだった日本人がソ連軍により殺害されたり全財産を失ったりした。
このため戦後、関東軍に対する風当たりは強かった。しかしその関東軍もまた、無理な南北二正面戦略をとり、ソ連という国家の非情さに気付かなかった日本軍や日本政府の犠牲者であった。
いずれにせよこのソ連参戦は広島、長崎への原爆投下とともに、最終的に日本を降伏に踏み切らせる大きなできごととなった。(皿木喜久)
◇
【用語解説】ルーズベルト大統領の死去
第二次大戦末期の1945年4月12日、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、ハリー・トルーマン副大統領が昇格した。
ルーズベルトは2月のヤルタ会談では病気でかなり疲れており、対日戦争を早く終わらせたい一心でソ連の参戦を要請、条件面でソ連のスターリンに押しまくられたと言われる。
これに対しトルーマンは戦後、反共色の濃い「トルーマン・ドクトリン」を発表したように、ソ連には強い警戒心を持っていた。これがソ連参戦前に広島に原爆を投下、日本に早期降伏を促したという説につながっている。
◇
連載が単行本『子供たちに伝えたい日本の戦争-あのときなぜ戦ったのか』(本体1300円+税、産経新聞出版)として刊行されました。