門脇朝秀翁の訪台と稲川和男さんの映像 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
西村眞悟の時事通信より。


No.990 平成26年 7月12日(土)

 

 先に、百歳の門脇朝秀翁が、台北から時計回りに山脈が連なる台湾の東海岸を南下して高雄から台北に戻る旅に出ておられることをお知らせした。
 その門脇朝秀翁は、七月六日夜、
 無事に元気で羽田空港に戻られた。
 現在もお元気である!

 台湾の山岳地帯に住んでいた数千年の歴史をもつ各部族は、
日本語という共通の言語と同じ日本人という共同体の意識によって始めて一体となった。
 この台湾に元もと住んでいた人々は、高砂族と総称される。
 
 彼らは、純粋無垢の日本人であった。
 そして、大東亜戦争において、実に多くの高砂族の若者が、志願し、数十倍の競争率を突破して日本軍兵士となり勇猛果敢な高砂義勇軍として戦った。
 その高砂族の、首から靴をぶら下げて写っている兵士達の写真がある。
 彼らは、官品として各人に支給された靴を、
天皇陛下からいただいた物であるから、足の下に踏みつけるのは失礼にあたるとして履かずに首からぶら下げているのである。
 その説明を聞いてから、戦場に赴く素朴な若者の姿を眺めたとき、涙ぐまずにはおれなかった。
 
 大東亜戦争末期、大本営は、アメリカ軍は沖縄ではなくまず台湾に侵攻してくると予想して、沖縄の防備に当たっていた精鋭部隊を沖縄から台湾に移動させた。
 しかし、アメリカ軍は台湾を回避して真っ直ぐに沖縄に侵攻してきた。
 この理由は何か。
 私には、アメリカ軍が、ニューギニアのジャングルで闘った勇猛な恐るべき高砂族が、台湾の山岳地帯にわんさといることに恐れをなしたこともその一要因だと思える。

 この度、百歳の門脇朝秀翁は、
 その純粋無垢の日本人であった高砂族の人々と会いに行かれた。
 そして、変わらざる絆を確認し合った。
 我が国では、敗戦によって、歴史意識は「戦前」と「戦後」に断絶されているが、
 高砂族にはその断絶がなく、戦前と戦後は連続している。
 つまり、高砂族の人々は、全員がフィリピンのルバング島で三十年間闘っていた小野田寛郎さんと同じ心情をもって、戦後も生きてきたのだ。
 こう思えば、門脇翁が、百歳になっても、この人々に会いに行かれる動機も心情も大いに分かる。
 
 従って、門脇翁の訪台それ自体が、
 我が国の近現代史の中における貴重な「証言」なのだ。
 翁の訪台は、
 日本の歴史とは何か。
 本来の日本とは何か。
 戦前と戦後の連続性を回復して、これを指し示すものである。
 即ち、日本を取り戻す為に、貴重なのだ。

 そこで、この貴重な証言を「映像」にとどめる為に、二年前に続いて、この度も、
 「映像教育研究会」を主宰する稲川和男さんに、
 門脇翁に同行して台湾に行っていただき、
 実に貴重な映像を撮影していただいた。
 
 稲川和男さんは、
 平成九年五月、私と一緒に小舟に乗り、尖閣諸島魚釣島に上陸した。そして、深夜の出港から早朝の魚釣島上陸までの情況を撮影してくれた。現在も、時々、TVで流れる尖閣諸島の空撮ではない陸上の映像は、稲川さんが撮影したものである。
 また、稲川さんは、私の尖閣上陸と同時期に始まった北朝鮮に拉致された日本人救出の国民運動をはじめから撮影している唯一の人物である。
 稲川さんの映像は、救出運動初期の左翼からの妨害、与党の冷淡さを余すことなく伝えている。めぐみさんのご両親が、ビラを配っていると、それを叩き落とす人がいた映像もある。
 先年、アメリカ人監督が、拉致被害者救出運動の記録映画を作ったが、この名作のなかにも稲川さんの映像が使われている。

 この稲川和男さんの撮影した、
 門脇朝秀翁の台湾訪問記録を是非映像でご覧頂きたい。
 稲川さんに聞くと、DVDは、八月に入れば完成しているという。以下に、映像教育研究所の電話番号を記しておく。ここに申し込めば、稲川さんが、完成したDVDを送ってくれる。当然ながら、代金がいる。
  TEL 03-3553-9181
  FAX 03-3553-9182

 なお、二年前に私も門脇翁に同行してお会いした四名の方々が、既に亡くなっていて、この旅の訪台でお会いすることかなわなかった。
 ここに、心からご冥福をお祈りする。
 高砂義勇隊の宮本武治さん、そして、私に山ナイフと棒だけで猪を狩る術を教えてくれた沈萬年さん、ありがとうございます。