戦艦大和「片道燃料」の真実 2 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
【戸津井康之の銀幕裏の声】
産経ウェスト

艦長の会話を聞き、大和の最期を見た元測距儀兵の証言(下)



昭和18年6月、大和といわれる戦艦がトラック碇泊中。僚機を撮影した際、偶然画面に収まる=「丸スペシャル 戦艦大和型」(潮書房)


 8月の終戦記念日が近づくにつれ、地上派、衛星放送ともに戦争映画のラインナップが増える。近年明らかになった元軍人らの証言などが基となって作られた作品は、戦争未経験の現代人にとって示唆に富むが、戦艦「大和」の元測距儀兵、北川茂さん(90)=三重県在住=の証言は過去のいずれの戦争映画でも描かれたことのない衝撃的な内容だった。

極秘、2日前に…やはり「特攻」だった

 昭和20(1945)年4月1日、山口県の三田尻沖に極秘作戦のもとに集結した大和を旗艦とする艦隊は沖縄特攻に向け、準備を進めていた。

 「大和は片道燃料でいいから、油を分けてもらっているんだ」。海上に停泊中の深夜、大和の両舷に船体を横付けし、ホースで給油作業を行う駆逐艦乗員の言葉を聞き、北川さんは愕然(がくぜん)とする。

 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に挑む準備をしていたのだ。

 以前、私は「大和は片道燃料で出撃した…」という内容の記事を書いたところ、読者から「史実では大和は往復燃料を積んでいた。特攻ではない」と抗議を受けたことがある。

 『大和の性能と積載燃料から往復可能』というデータや証言が掲載された資料を根拠に指摘してきたのだろう。こういう“鬼の首を取った”ような抗議を受けることは記者にとって宿命だと痛感している。だが、同時に、戦史の資料には記録されてこなかった北川さんたち兵士の“生きた証言”こそが、歴史の真実を伝えるのだと信じたい。

戦闘開始、その直後に被弾

 5日午後3時。「大和の甲板に集められた総勢約2600人(3分の1の乗員は持ち場待機)を前に伊藤整一司令長官が言いました。『特別攻撃隊を命ず』。これまでの極秘作戦がついに明らかになったのです。私たちは初めて特攻を知らされました。解散を告げられた後も、私の足は甲板にへばりつき、動きませんでした。周りを見ると、顔面蒼白でした…」

「敵の魚雷わざと大和に受ける!」 別れの盃は「おにぎり2個、たくあん…」

 大和を旗艦とする艦隊は沖縄を目指し、洋上を進む。7日午前11時。「いよいよ決戦が近づいてきました。通常正午からの昼食が1時間早められ、私は配られたおにぎり2個とたくあん3切れを食べました」

 正午。北川さんは「敵機発見!」の合図で戦闘開始を確認する。その直後、後部艦橋に2発の直撃弾を受ける。すると軍刀を杖に、負傷した乗員が「後部艦橋の総員死亡」と連絡にきた。後にこの乗員も戦死したことを北川さんは知る。

「魚雷をわざと命中させバランス取る」

 米軍は爆弾では不沈艦の異名を誇る大和の撃沈は無理だと判断、魚雷攻撃を左舷に集中させる。

 「魚雷は次々と命中しました。その度にもの凄い反動で揺れるのですが、船内にいる乗員にはその理由が分からない。『なぜ揺れるのですか』という伝送管からの問いに、上官は『大和の主砲を発射する反動だと伝えておけ』に指示していました」

 左舷への集中攻撃で大和は大きく傾く。そして、北川さんは自分の耳を疑うような声を聞く。

 右舷に攻撃された魚雷を大和がかわすと、「司令長官が『艦長、右舷の魚雷は回避せず当てた方がよかったんじゃないか』。有賀幸作艦長は「そうですね」と話す声が聞こえてくるんです。自分の船にですよ。しかし、よく考えると、左に傾いた大和を復元させるため、右舷に魚雷を命中させてバランスを取れないか、と考えていたようなのです」

 左旋回しかできない“瀕死”の状態になりながらも、司令長官や艦長は最後の最後まで打開策を見いだそうとしていた。特攻をあきらめようとしていなかったのだ。そんな悲壮な覚悟を北川さんは上官や同僚たちが次々と命を落とす極限の状況で聞いていた。

 大和の主砲の砲弾は1個約1トン。弾薬庫から主砲まではエレベーターでなければ運べない。「弾薬庫から『艦長、船体の傾きを直して下さい。砲弾が運べません』という悲痛な声も聞こえてきました。艦長はそのたびに「よし、分かった」と答えていましたが…」。結局、大和は主砲を1発も撃ち返せず沈んでいった。

世界一の巨砲、使わぬまま沈没…海底の私を、大和が助けてくれた

 午後2時20分、大和は航行不能となり、「総員退去命令」が出る。しかし、測距儀にいた北川さんは「艦橋の一番上ですから海面まで数十メートルはあり、怖くて飛びこめませんでした」と言う。大和が一気に傾いた反動で、北川さんは測距儀にいた同僚と2人、海面へ投げ出された。北川さんは沈む大和とともに海底へ引きずり込まれていく。「このまま溺死か」と覚悟した瞬間、水中で大爆発が2回起こり、その反動で海面へ押し上げられたという。

大和は沈没も「極秘」…少ない生存者も孤島に隔離

 間一髪、溺死を免れた北川さんは同僚と2人で木切れに捕まり、救助を待つ。しかし、助けにきた駆逐艦3隻の内、2隻が引き返し、雪風だけが残された。日が沈む寸前、木切れの上で、北川さんは同僚と手をばたつかせ、波しぶきを上げて必死で合図を送り続けた。ようやく雪風の甲板の上で双眼鏡を見ていた乗員が、北川さんたちを発見、2人を収容すると同時に雪風はその場を離脱した。

 すでに日が沈んでいたが雪風は船内の電灯を消して全速力で航行。北川さんたち乗員には「一切声を出すな」と指示された。

 米潜水艦の追尾をかわすためだった。「ようやく救助されたと思ったのもつかの間、日本へ帰るまで生きた心地がしませんでした」

 北川さんたちは長崎県の佐世保港へ帰港するが、「島へ連れて行かれ、そこから出ることを許されず、箝口(かんこう)令がしかれました。大和の沈没は極秘扱いだったのです」と北川さんは語った。


大和沈没時、北川さんが身に付けていた「千人針」。血や大和の重油などが今も残ったままだ(北川さん提供)