No.980 平成26年 6月28日(土)
深い感銘を受けたので記しておきたい。
六月二十六日、常陸国の鹿島神宮に参拝した。
以前、奈良の藤原氏の氏神である春日大社に参ったとき、
この神社は、常陸国の鹿島神宮からご神体のご分霊を受けて造立されたと説明されていた。
その時、関西人らしく、奈良は日本の一番古いところという思い込みがあったので、春日大社の前に遙か東の常陸の国に、さらに古い社があることに意外の感がした。
それで一度、機会があれば、鹿島神宮を訪れたいと思っていた。
二十六日に、その機会が訪れた。
呆然とするほど荘厳で森厳で奥深く広大な神社だった。
このような社は、奈良や京都でみたこともない。
何しろ造立は皇紀元年即ち紀元前六百六十年頃である。
しかも、この造立に至る話は、
さらに気が遠くなるほど昔だ。
武甕槌大神、読み方が分からない大神であるが、
たけみかつちのおおかみ、という、
この大神が、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて、
出雲の国に向かわれて国譲りを成就され、
皇孫の国たるべき日本の建国に挺身され、
特に東国における功績はきわめて大きかった。
これ、神代の昔のことである。
そこで、遙か後の神武天皇が、
東征の半ばで窮地に陥ったときに、この大神の神威により救われたことから、神恩に感謝され、
自らの即位の年にこの大神を鹿島の地に勅祭された。
これが、皇紀元年のこの神社の造立であるという。
従って、この鹿島の森厳な森の中で何を実感できたか。
それは、ちまちました奈良や京都では、実感できない、
「皇孫の国たるべき日本の創造」における構想の雄大さである。
従って、春日神社造立における疑問も霧消した。
これは、都の奈良へ、田舎から神さんをお迎えしたのではなく、
大化の改新で中大兄皇子に従って功を上げた中臣鎌足という成り上がり者の息子と孫達が、
鹿島の神様の権威にすがって(利用して)、都の中心部に自分たちの氏神を造ったということだ。
明治維新の前には、雨の日にも下駄を履けなかった下級氏族が、維新の功績によって成り上がり、帝都の中心部に大庭園を造るようなものだ。
また、鹿島神宮で印象に残ったことは、この神宮は、国難の時に武士達の武運長久を祈願する社となったことだ。
鎌倉時代の元寇の際、出撃する多くの武者達は、鹿島神宮のかつて神武天皇を助けられた武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)に必勝を祈願して遙か西の博多と玄界灘に赴いた。
とにかく、鹿島神宮の森の中にいて、
日本の計り知れない底の深さを感じ、
日本に生まれたありがたさを感じ、
黒雲と白雲そしてその隙間から見える青空が錯綜する空の下を走って東京に帰った。
その東京では、
集団的自衛権に関する自民と公明の牛のヨダレのような協議、
そして、東京都議会でのセクハラ野次に関する双方の演技会と、
野次った方と野次られた方のお粗末な実態、が報道されていた。
なんとも、みみっちく、やりきれん。
このままでは、雹が降ったが、槍(ミサイル)も降るかもしれん。
ソドムのように、海が裂けたが、地も裂けるかもしれん。