“オフサイド”な印象操作…「安倍」「性奴隷制」「慰安婦」「右傾化」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
【河村直哉の国論】
産経ウェスト

W杯の「ナショナリズム」まで批判する左傾病メディア
ナショナリズムのどこが悪い?日本を応援して何がいけない?



試合前、決戦を前に盛り上がる日本サポーター=24日、ブラジル・マットグロッソ州クイアバ(山田喜貴撮影)


 サッカーW杯の1次リーグの期間、天国と地獄を行ったり来たりという日本人は多かったのではないか。筆者もその1人。テレビ観戦組にすぎないが、コートジボワールに敗れた6月15日の日曜日の午後、気持ちがふさぎ、部屋にこもった。25日のコロンビア戦も早朝からテレビの前に座り、結果、その日1日を失意のうちにすごした。

水を差す輩

 筆者はそれほど熱心なサッカーファンではない。しかし見始めるとやめられないし、ことに日の丸を背負ったゲームであれば熱が入る。多くの日本人はそうだろうし、筆者はそれを自然なことだと思う。選手も応援する側も、日本国民であることを感覚的に自覚し一体感を共有しているということだろう。

 ところが、こうした「国民としての一体感」といった話になるとすぐに水を差す輩が、戦後日本では大手をふってきた。そのことはここで改めて思い出しておきたい。たとえばだ。

 「サッカーはナショナリズムを刺激しがちな競技である半面、『世界共通の言語』であるとも言われる。…『共通言語』で語られる世界のプレーを、思う存分楽しもう」

 平成14(2002)年5月31日、朝日新聞社説。日韓共同で開催されたW杯の開幕に際して書かれたもの。「ナショナリズムを刺激」する、あるいはされることが、いけないことだとでもいうのだろうか。以前も書いたが、こうした考え方、筆者のいう「左傾病」はよほど国家が嫌いで、世界共通がお好きのようである。

 ちなみに朝日は平成7(1995)年の社説で、日韓基本条約締結30周年に際しW杯の日韓共催を提案したそうだ。14年のさきの社説は自慢げにそのことに触れ、「当時と比べて、日本と韓国の空気は明らかに変わってきた」と喜ぶ。人類はみんななかよし、的な発想の甘さは、現在の日韓関係を見ればだれでもわかる。

執拗な警戒と牽制

 10年ほど前の話ではある。しかしわずか10年ほど前でしかないともいえるのだ。

 もう1つ朝日新聞を見ておこう。シドニー五輪が開かれていた平成12年9月24日の社説「ナショナリズム 陶酔がもたらすものは」。五輪の応援を「健全なナショナリズム」とし、すぐ矛先を変えて「ひとたびナショナリズムが、居丈高な自己主張にすぎないものになるなら、これほど危なっかしいこともない。その点、このところの国内の動向は、いささか気がかりだ」と批判に転じる。なにが気がかりだというのだろう。少し長めに引用しよう。

自己陶酔と他者の排除を…さりげなく印象操作「健全」「荒っぽい」駆使

「今年になって、中国の調査船や軍艦が日本の排他的経済水域への侵入を繰り返している。いらだつ自民党内からは、『中国をどこまでのさばらせるのか』『なめられるな』といった声が聞こえてくる」

 「見逃せないのは、その後景として『中国、米国何するものぞ』といった荒っぽいナショナリズムが、若手の国会議員や官僚らの間で頭をもたげ始めていることだ。三十代のある外務官僚は『中国は早晩、深刻な軍事的脅威になる。日本防衛など眼中にない米国をあてにせず、日本は独自の国家戦略を練って国益を守り抜くべきだ』と話す」

 「『固有の伝統への回帰』を訴えてやまないナショナリズムは、往々にして、自己陶酔と他者の排除を伴う。そのことに、私たちはよほど敏感で自覚的でなければならない」

 省略したが「固有の伝統への回帰」でいわれているのは、国旗・国歌法の制定や教育勅語の評価である。このほか、危ういナショナリズムを説くこの社説が取り上げるのは、評判を呼んだ小林よしのり氏の「戦争論」であり、保守派による自虐史観批判など。

 いってみれば、日本という国を正直に受け止めようとする姿勢が、この社説によるとなんとも危険なナショナリズムになる。それがW杯やオリンピックに重ね合わされ、警戒され牽制(けんせい)されるのである。

 しかし筆者の感覚では、これらは危険なものでもなんでもない。どの国の国民も本来持つものだろう。社説が触れる外務官僚の見解にしても、日本防衛など眼中にないうんぬんは多少いいすぎとしても、おかしいとは思えない。むしろ、中国の船がわがもの顔で排他的経済水域に出入りするようになったとき、日本の国論を統一して中国に対しきっぱりした態度に出ていれば、現在のような一触即発の事態にはなっていなかったのではないかと考える。

羮に懲りて膾を吹くの愚

 こうした過剰なナショナリズム警戒は、朝日だけに見られるものではない。昭和20(1945)年の敗戦以降、日本を長く覆ってきた風潮だったといってよい。

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)はその占領方針に日本人の「精神的武装解除」を置いた。神道の事実上の追放である神道指令、修身・日本史・地理の停止を指示したいわゆる三科指令などが矢継ぎ早に出された。たとえば神道指令の文書を見ると、GHQが敵視しているのが、日本の超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)なのだ。

際どい“オフサイド”な印象操作…「安倍」「性奴隷制」「慰安婦」「右傾化」

「超」とは、極端な、くらいに理解しておいてよいと思うが、日本人自身によって過剰な解釈と自己批判がなされた。家族的なつながりなど日本社会の特質そのものが、超国家主義の要因であるようにとらえられ、否定されてきたのだった。「ウルトラ」を付けるまでもなくナショナリズムそのものが、忌み嫌うべきものであるかのように扱われてきたといってよい。

 スポーツの文脈を離れるとよくわかるのだが、実はナショナリズムを警戒する状況は、最近でもあまり変わっていない。安倍晋三総裁が率いる自民党が与党に返り咲いた平成24年暮れの衆院選の前後、左傾メディアがしきりと「ナショナリズム」「右傾化」と連発していたのを思い起こしておきたい。衆院選翌日の、毎日新聞の社説はこうだ。

 「安倍氏ら自民党が自衛隊を『国防軍』に改称する9条改憲や、尖閣諸島への公務員常駐の検討など保守色の強い路線に傾斜していることは気がかりだ。海外にも日本に偏狭なナショナリズムが広がることを警戒する声がある」(平成24年12月17日)

 そのころの欧米などのメディアに、日本の「ナショナリズム」や「右傾化」についての言及が目立ったことは事実である。欧米の一部には反日世論が根強い。いわば戦勝国史観でもって日本を警戒する。反日メディアの代表であるニューヨーク・タイムズなど、安倍氏が総裁に選ばれると、「性奴隷制」などという言葉をそのまま使って慰安婦問題を引き合いに出し、「ナショナリズム」「右傾化」を批判していた。

 しかし日本人にしてみれば、領土をめぐる横暴や、歴史についての言いがかりに毅然(きぜん)として筋を通すのは、あたりまえのことだ。それを確かにナショナリズムといってもよい。ナショナリズムとは、私たちが生まれ育った父祖の地(パトリ)を愛する祖国愛(パトリオティズム)を、近代にできた国民国家(ネーションステート)に適応させたもの、とここではしておく。どの国のどの国民にもあるものだ。

似て非なる用語…「健全」なる接着剤を使い、警戒心あおる編集テク

 警戒されるべきはショービニズム(排外的愛国主義)やジンゴイズム(攻撃的愛国主義)であって、オリンピックについての朝日社説のようにナショナリズムに「健全」とか「荒っぽい」と付すのは、まずもって用語を混乱させる。混乱させることにより、ナショナリズムそのものを振幅のある怪物のように位置づけ、警戒心をあおっているのだ。

 ことに、欧米の反日論者や中国、韓国ならいざ知らず、である。戦後の占領から独立してすでに久しいのに、日本がふつうの国に回帰しようとする動きを、日本人自らがナショナリズムという用語を否定的に使って批判するのは、バランス感覚を欠いている。

あたりまえに日本を愛そう

 左傾人士は別にして、いまはごく常識的な日本人が、ごくあたりまえに日本という国を愛し、同胞意識を自然に抱くようになっていると筆者は感じる。このところのこんな世間の風を左傾メディアも感じているのだろう、今回のW杯に関して、羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く式のナショナリズム批判は見られなかった。あたりまえだ。

 日本人選手のゴールに歓喜し、敗退に落胆する。そんな日本人が筆者の理解する日本人だし、いわずもがなだが筆者も日本人としてそんな同胞が好きである。

(大阪正論室長)

=随時掲載します

スタンドには日の丸とともに大声援のサポーター。コロンビア戦の後半、ジャクソン・マルティネスに3点目を許し、唇を噛みしめる本田圭佑=24日、ブラジル・クイアバのパンタナル・アリーナ(Arena Pantanal)(吉澤良太撮影)